のなかを掻《か》きわけて行く。軍用犬に自転車を牽《ひ》かせながら、颯爽《さっそう》と鉄兜《てつかぶと》を被《かぶ》っている男、杖《つえ》にとり縋《すが》り跛《びっこ》をひいている老人。……トラックが来た。馬が通る。薄闇の狭い路上がいま祭日のように賑わっているのだった。……正三は樹蔭《こかげ》の水槽《すいそう》の傍にある材木の上に腰を下ろした。
「この辺なら大丈夫でしょうか」と通りがかりの老婆が訊《たず》ねた。
「大丈夫でしょう、川もすぐ前だし、近くに家もないし」そういって彼は水筒の栓《せん》を捻《ひね》った。いま広島の街の空は茫と白んで、それはもういつ火の手があがるかもしれないようにおもえた。街が全焼してしまったら、明日から己《おれ》はどうなるのだろう、そう思いながらも、正三は目の前の避難民の行方《ゆくえ》に興味を感じるのであった。
『ヘルマンとドロテア』のはじめに出て来る避難民の光景が浮んだ。だが、それに較《くら》べると何とこれは怕《おそろ》しく空白な情景なのだろう。……暫くすると、空襲警報が解除になり、つづいて警戒警報も解かれた。人々はぞろぞろと堤の路を引上げて行く。正三もその路を
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