しながら、「これを穿《は》いて逃げる時」とそんな念想が閃めくのであった。
……それから日没の街を憮然《ぶぜん》と歩いている彼の姿がよく見かけられた。街はつぎつぎに建ものが取払われてゆくので、思いがけぬところに広場がのぞき、粗末な土の壕《ごう》が蹲《うずくま》っていた。滅多に電車も通らないだだ広い路を曲ると、川に添った堤に出て、崩《くず》された土塀のほとりに、無花果《いちじく》の葉が重苦しく茂っている。薄暗くなったまま容易に夜に溶け込まない空間は、どろんとした湿気が溢《あふ》れて、正三はまるで見知らぬ土地を歩いているような気持がするのであった。……だが、彼の足はその堤を通りすぎると、京橋の袂《たもと》へ出、それから更に川に添った堤を歩いてゆく。清二の家の門口まで来かかると、路傍で遊んでいた姪《めい》がまず声をかけ、つづいて一年生の甥がすばやく飛びついてくる。甥はぐいぐい彼の手を引張り、固い小さな爪《つめ》で、正三の手首を抓《つね》るのであった。
その頃、正三は持逃げ用の雑嚢《ざつのう》を欲しいとおもいだした。警報の度毎《たびごと》に彼は風呂敷包を持歩いていたが、兄たちは立派なリュック
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