ったネーブルの皮を掴《つか》むと、向うの壁へピシャリと擲《な》げつけた。狂暴な空気がさっと漲《みなぎ》った。「まあ、まあ、もう一ぺん明日までよく考えてみて下さい」と嫂はとりなすように言葉を挿《はさ》んだが、結局、康子はその夜のうちに承諾してしまったのであった。……暫《しばら》く康子は眼もとがくらくらするような状態で家のうちをあてもなく歩き廻っていたが、何時の間にか階段を昇ると二階の正三の部屋に来ていた。そこには朝っぱらからひとり引籠《ひきこも》って靴下の修繕をしている正三の姿があった。順一のことを一気に喋り了《おわ》ると、はじめて泪《なみだ》があふれ流れた。そして、いくらか気持が落着くようであった。正三は憂わしげにただ黙々としていた。
点呼が了ってからの正三は、自分でもどうにもならぬ虚無感に陥りがちであった。その頃、用事もあまりなかったし、事務室へも滅多に姿を現さなくなっていた。たまに出て来れば、新聞を読むためであった。ドイツは既に無条件降伏をしていたが、今この国では本土決戦が叫ばれ、築城などという言葉が見えはじめていた。正三は社説の裏に何か真相のにおいを嗅《か》ぎとろうとした。しか
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