かも、それは一瞬にして捲《ま》き起るようにおもえた。そうすると、彼はやがてこの街とともに滅び失《う》せてしまうのだろうか、それとも、この生れ故郷の末期の姿を見とどけるために彼は立戻って来たのであろうか。賭《かけ》にも等しい運命であった。どうかすると、その街が何ごともなく無疵《むきず》のまま残されること、――そんな虫のいい、愚かしいことも、やはり考え浮ぶのではあった。

 黒羅紗《くろらしゃ》の立派なジャンパーを腰のところで締め、綺麗《きれい》に剃刀《かみそり》のあたった頤《あご》を光らせながら、清二は忙しげに正三の部屋の入口に立ちはだかった。
「おい、何とかせよ」
 そういう語気にくらべて、清二の眼の色は弱かった。彼は正三が手紙を書きかけている机の傍《かたわら》に坐り込むと、側《そば》にあったヴィンケルマンの『希臘《ギリシャ》芸術|模倣論《もほうろん》』の挿絵《さしえ》をパラパラとめくった。正三はペンを擱《お》くと、黙って兄の仕事を眺めていた。若いとき一時、美術史に熱中したことのあるこの兄は、今でもそういうものには惹《ひ》きつけられるのであろうか……。だが、清二はすぐにパタンとその本を
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