漸《ようや》く安定していた清二にとって、これは堪えがたいことであった。……一体全体どうなるのか。正三などにわかることではなかった。彼は、一刻も速く順一に会って、工場疎開のことを告げておきたかった。親身で兄と相談したいことは、いくらもあるような気持がした。それなのに、順一は順一で高子のことに気を奪われ、今は何のたよりにもならないようであった。
 清二はゲートルをとりはずし、暫《しばら》くぼんやりしていた。そのうちに上田や三浦が帰って来ると、事務室は建物疎開の話で持ちきった。「乱暴なことをするのう。うちに、鋸《のこぎり》で柱をゴシゴシ引いて、繩《なわ》かけてエンヤサエンヤサと引張り、それで片っぱしからめいで行くのだから、瓦《かわら》も何もわや苦茶じゃ」と上田は兵隊の早業《はやわざ》に感心していた。「永田の紙屋なんか可哀相《かわいそう》なものさ。あの家は外から見ても、それは立派な普請だが、親爺《おやじ》さん床柱を撫《な》でてわいわい泣いたよ」と三浦は見てきたように語る。すると、清二も今はニコニコしながら、この話に加わるのであった。そこへ冴《さ》えない顔つきをして順一も戻って来た。

 四月に
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