ったではないか、ホホウ、日々に肥ってゆくぞ」と機嫌よく冗談を云うことがあった。実際、康子は下腹の方が出張って、顔はいつのまにか二十代の艶《つや》を湛《たた》えていた。だが、週に一度位は五日市町の方から嫂が戻って来た。派手なモンペを着た高子は香料のにおいを撒きちらしながら、それとなく康子の遣口《やりくち》を監視に来るようであった。そういうとき警報が出ると、すぐこの高子は顔を顰《しか》めるのであったが、解除になると、「さあ、また警報が出るとうるさいから帰りましょう」とそそくさと立去るのだった。
……康子が夕餉《ゆうげ》の支度《したく》にとりかかる頃には大概、次兄の清二がやって来る。疎開学童から来たといって、嬉《うれ》しそうにハガキを見せることもあった。が、時々、清二は「ふらふらだ」とか「目眩《めまい》がする」と訴えるようになった。顔に生気がなく、焦躁《しょうそう》の色が目だった。康子が握飯を差出すと、彼は黙ってうまそうにパクついた。それから、この家の忙しい疎開振りを眺めて、「ついでに石灯籠《いしどうろう》も植木もみんな持って行くといい」など嗤《わら》うのであった。
前から康子は土蔵の中に放りっぱなしになっている箪笥《たんす》や鏡台が気に懸《かか》っていた。「この鏡台は枠《わく》つくらすといい」と順一も云ってくれた程だし、一こと彼が西崎に命じてくれれば直《す》ぐ解決するのだったが、己《おのれ》の疎開にかまけている順一は、もうそんなことは忘れたような顔つきだった。直接、西崎に頼むのはどうも気がひけた。高子の命令なら無条件に従う西崎も康子のことになると、とかく渋るようにおもえた。……その朝、康子は事務室から釘抜《くぎぬき》を持って土蔵の方へやって来た順一の姿を注意してみると、その顔は穏かに凪《な》いでいたので、頼むならこの時とおもって、早速、鏡台のことを持ちかけた。
「鏡台?」と順一は無感動に呟《つぶや》いた。
「ええ、あれだけでも速く疎開させておきたいの」と康子はとり縋《すが》るように兄の眸《ひとみ》を視《み》つめた。と、兄の視線はちらと脇《わき》へ外《そ》らされた。
「あんな、がらくた、どうなるのだ」そういうと順一はくるりとそっぽを向いて行ってしまった。はじめ、康子はすとんと空虚のなかに投げ出されたような気持であった。それから、つぎつぎに憤りが揺れ、もう凝《じっ》としていられなかった。がらくたといっても、度重《たびかさ》なる移動のためにあんな風になったので、彼女が結婚する時まだ生きていた母親がみたててくれた記念の品であった。自分のものになると箒《ほうき》一本にまで愛着する順一が、この切ない、ひとの気持は分ってくれないのだろうか。……彼女はまたあの晩の怕《こわ》い順一の顔つきを想い浮べていた。
それは高子が五日市町に疎開する手筈のできかかった頃のことであった。妻のかわりに妹をこの家に移し一切を切廻さすことにすると、順一は主張するのであったが、康子はなかなか承諾しなかった。一つには身勝手な嫂に対するあてこすりもあったが、加計町の方へ疎開した子供のことも気になり、一そのこと保姆《ほぼ》となって其処《そこ》へ行ってしまおうかとも思い惑った。嫂と順一とは康子をめぐって宥《なだ》めたり賺《すか》したりしようとするのであったが、もう夜も更《ふ》けかかっていた。
「どうしても承諾してくれないのか」と順一は屹《きっ》となってたずねた。
「ええ、やっぱし広島は危険だし、一そのこと加計町の方へ……」と、康子は同じことを繰返した。突然、順一は長火鉢《ながひばち》の側にあったネーブルの皮を掴《つか》むと、向うの壁へピシャリと擲《な》げつけた。狂暴な空気がさっと漲《みなぎ》った。「まあ、まあ、もう一ぺん明日までよく考えてみて下さい」と嫂はとりなすように言葉を挿《はさ》んだが、結局、康子はその夜のうちに承諾してしまったのであった。……暫《しばら》く康子は眼もとがくらくらするような状態で家のうちをあてもなく歩き廻っていたが、何時の間にか階段を昇ると二階の正三の部屋に来ていた。そこには朝っぱらからひとり引籠《ひきこも》って靴下の修繕をしている正三の姿があった。順一のことを一気に喋り了《おわ》ると、はじめて泪《なみだ》があふれ流れた。そして、いくらか気持が落着くようであった。正三は憂わしげにただ黙々としていた。
点呼が了ってからの正三は、自分でもどうにもならぬ虚無感に陥りがちであった。その頃、用事もあまりなかったし、事務室へも滅多に姿を現さなくなっていた。たまに出て来れば、新聞を読むためであった。ドイツは既に無条件降伏をしていたが、今この国では本土決戦が叫ばれ、築城などという言葉が見えはじめていた。正三は社説の裏に何か真相のにおいを嗅《か》ぎとろうとした。しか
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