し、どうかすると、二日も三日も新聞が読めないことがあった。これまで順一の卓上に置かれていた筈のものが、どういうものか何処かに匿《かく》されていた。
 絶えず何かに追いつめられてゆくような気持でいながら、だらけてゆくものをどうにも出来ず、正三は自らを持てあますように、ぶらぶらと広い家のうちを歩き廻ることが多かった。……昼時になると、女生徒が台所の方へお茶を取りに来る。すると、黒板の塀《へい》一重を隔てて、工場の露次の方でいま作業から解放された学徒たちの賑やかな声がきこえる。正三がこちらの食堂の縁側に腰を下ろし、すぐ足もとの小さな池に憂鬱《ゆううつ》な目《まな》ざしを落していると、工場の方では学徒たちの体操が始り、一、二、一、二と級長の晴れやかな号令がきこえる。そのやさしい弾みをもった少女の声だけが、奇妙に正三の心を慰めてくれるようであった。……三時頃になると、彼はふと思いついたように、二階の自分の部屋に帰り、靴下の修繕をした。すると、庭を隔てて、向うの事務室の二階では、せっせと立働いている女工たちの姿が見え、モーターミシンの廻転する音響もここまできこえて来る。正三は針のめどに指さきを惑わしながら、「これを穿《は》いて逃げる時」とそんな念想が閃めくのであった。
 ……それから日没の街を憮然《ぶぜん》と歩いている彼の姿がよく見かけられた。街はつぎつぎに建ものが取払われてゆくので、思いがけぬところに広場がのぞき、粗末な土の壕《ごう》が蹲《うずくま》っていた。滅多に電車も通らないだだ広い路を曲ると、川に添った堤に出て、崩《くず》された土塀のほとりに、無花果《いちじく》の葉が重苦しく茂っている。薄暗くなったまま容易に夜に溶け込まない空間は、どろんとした湿気が溢《あふ》れて、正三はまるで見知らぬ土地を歩いているような気持がするのであった。……だが、彼の足はその堤を通りすぎると、京橋の袂《たもと》へ出、それから更に川に添った堤を歩いてゆく。清二の家の門口まで来かかると、路傍で遊んでいた姪《めい》がまず声をかけ、つづいて一年生の甥がすばやく飛びついてくる。甥はぐいぐい彼の手を引張り、固い小さな爪《つめ》で、正三の手首を抓《つね》るのであった。
 その頃、正三は持逃げ用の雑嚢《ざつのう》を欲しいとおもいだした。警報の度毎《たびごと》に彼は風呂敷包を持歩いていたが、兄たちは立派なリュック
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