ていられなかった。がらくたといっても、度重《たびかさ》なる移動のためにあんな風になったので、彼女が結婚する時まだ生きていた母親がみたててくれた記念の品であった。自分のものになると箒《ほうき》一本にまで愛着する順一が、この切ない、ひとの気持は分ってくれないのだろうか。……彼女はまたあの晩の怕《こわ》い順一の顔つきを想い浮べていた。
それは高子が五日市町に疎開する手筈のできかかった頃のことであった。妻のかわりに妹をこの家に移し一切を切廻さすことにすると、順一は主張するのであったが、康子はなかなか承諾しなかった。一つには身勝手な嫂に対するあてこすりもあったが、加計町の方へ疎開した子供のことも気になり、一そのこと保姆《ほぼ》となって其処《そこ》へ行ってしまおうかとも思い惑った。嫂と順一とは康子をめぐって宥《なだ》めたり賺《すか》したりしようとするのであったが、もう夜も更《ふ》けかかっていた。
「どうしても承諾してくれないのか」と順一は屹《きっ》となってたずねた。
「ええ、やっぱし広島は危険だし、一そのこと加計町の方へ……」と、康子は同じことを繰返した。突然、順一は長火鉢《ながひばち》の側にあったネーブルの皮を掴《つか》むと、向うの壁へピシャリと擲《な》げつけた。狂暴な空気がさっと漲《みなぎ》った。「まあ、まあ、もう一ぺん明日までよく考えてみて下さい」と嫂はとりなすように言葉を挿《はさ》んだが、結局、康子はその夜のうちに承諾してしまったのであった。……暫《しばら》く康子は眼もとがくらくらするような状態で家のうちをあてもなく歩き廻っていたが、何時の間にか階段を昇ると二階の正三の部屋に来ていた。そこには朝っぱらからひとり引籠《ひきこも》って靴下の修繕をしている正三の姿があった。順一のことを一気に喋り了《おわ》ると、はじめて泪《なみだ》があふれ流れた。そして、いくらか気持が落着くようであった。正三は憂わしげにただ黙々としていた。
点呼が了ってからの正三は、自分でもどうにもならぬ虚無感に陥りがちであった。その頃、用事もあまりなかったし、事務室へも滅多に姿を現さなくなっていた。たまに出て来れば、新聞を読むためであった。ドイツは既に無条件降伏をしていたが、今この国では本土決戦が叫ばれ、築城などという言葉が見えはじめていた。正三は社説の裏に何か真相のにおいを嗅《か》ぎとろうとした。しか
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