、その準備だけでも大変だった。手際《てぎわ》のわるい光子はのろのろと仕事を片づけ、どうかすると無駄話に時を浪費している。清二は外から帰って来ると、いつも苛々《いらいら》した気分で妻にあたり散らすのであったが、その癖、夕食が済むと、奥の部屋に引籠《ひきこも》って、せっせとミシンを踏んだ。リュックサックなら既に二つも彼の家にはあったし、急ぐ品でもなさそうであった。清二はただ、それを拵《こしら》える面白さに夢中だった。「なあにくそ、なあにくそ」とつぶやきながら、針を運んだ。「職人なんかに負けてたまるものか」事実、彼の拵えたリュックは下手《へた》な職人の品よりか優秀であった。
……こうして、清二は清二なりに何か気持を紛らし続けていたのだが、今日、被服支廠に出頭すると、工場疎開を命じられたのには、急に足許《あしもと》が揺れだす思いがした。それから帰路、竹屋町辺まで差しかかると、昨日まで四十何年間も見馴れた小路が、すっかり歯の抜けたようになっていて、兵隊は滅茶苦茶に鉈《なた》を振るっている。二十代に二三年他郷に遊学したほかは、殆どこの郷土を離れたこともなく、与えられた仕事を堪えしのび、その地位も漸《ようや》く安定していた清二にとって、これは堪えがたいことであった。……一体全体どうなるのか。正三などにわかることではなかった。彼は、一刻も速く順一に会って、工場疎開のことを告げておきたかった。親身で兄と相談したいことは、いくらもあるような気持がした。それなのに、順一は順一で高子のことに気を奪われ、今は何のたよりにもならないようであった。
清二はゲートルをとりはずし、暫《しばら》くぼんやりしていた。そのうちに上田や三浦が帰って来ると、事務室は建物疎開の話で持ちきった。「乱暴なことをするのう。うちに、鋸《のこぎり》で柱をゴシゴシ引いて、繩《なわ》かけてエンヤサエンヤサと引張り、それで片っぱしからめいで行くのだから、瓦《かわら》も何もわや苦茶じゃ」と上田は兵隊の早業《はやわざ》に感心していた。「永田の紙屋なんか可哀相《かわいそう》なものさ。あの家は外から見ても、それは立派な普請だが、親爺《おやじ》さん床柱を撫《な》でてわいわい泣いたよ」と三浦は見てきたように語る。すると、清二も今はニコニコしながら、この話に加わるのであった。そこへ冴《さ》えない顔つきをして順一も戻って来た。
四月に
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