童話」――それは彼が原子爆弾遭難以来、絶えず条件に追ひつめられ追ひまくられて行く窮鼠の心情を述べようとするものだつたが――その題名だけがノートの端に書いてあつた。
 彼はある朝、頭上に真黒な一撃を受け、つづいて家の崩壊を眺め、それからそこを逃出して行つたのだが、あの時から、もはや地上に生存してゆくことを剥奪されたのかもしれなかつた。その後、うちつづく飢ゑと屈辱の底をくぐり抜け、田舎から東京へ出て来たが、そこでも同じやうな条件が待伏せてゐた。彼を迎へてくれた友人の家の細君は、彼がその部屋に居ついて一ケ月も経たないうちに、もうそこを立退いて欲しいと仄めかした。それからそこでは隠忍と飢ゑの生活が一年あまり続いた。が、そのうち彼の友人は社用で遠く旅に出掛け、そのまま消息がなかつた。その友人が旅先で愛人が出来、もはや東京へは戻らないといふ決意を知らせて来たので、彼は早急にそこを立退かうと思つてゐる矢さき、その家の細君からも立退命令を受けた。前からその細君の無気味な顔にいつも脅かされてゐた彼は、火のついたやうに狼狽ててしまつた。彼はその頃、やはり下宿を追出されて、友人の下宿に同居してゐる中野の甥の
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