さきほどまで彼を苦しめてゐた感覚は次第に緩められて行つた。漸く普通人の気分に戻ると、彼は吻として切符売場の行列に加はつてゐた。
毎朝、彼はニユー・アダムの囁に悩まされだした。それを彼は次のやうにノートに書きしるした。
「顔を洗つたり、外食をすませてくる間に、一ダース位の小さな念想が泡立つてくる。素敵だ、ノートに書きとめてやらう、と直ぐペンをとりたい思ひに駆られながらも、目さきの用件に追はれてゐる。漸くつまらぬ用が済んで朝の部屋に落着くと、さきほどの念想は高い梢にとまつた目白のやうに、チラチラとこちらを嘲つてゐる。
君たちを捉まへて、小器用にまとめれば、君たちはノートのなかで晴れやかに囀るだらう。だが、君たちを飛ばしたり囀らす母なる大地とその秘密の方が、もつとも僕を悩ましてゐるのだ。見給へ、僕の部屋は頗る無器用に朝の宇宙に突立つてゐる。……」
彼の部屋は神田のある事務所の二階にあつたが、朝から晩まで騒音攻めにされてゐた。半年あまり部屋がないため、さんざ悩まされた揚句、漸くその事務所の一室に転がり込んで来たのだが、何ものかに追ひ詰められてゐる気持は今もまだ附纏つてゐた。
「悪意ある
前へ
次へ
全20ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング