た。
 彼はまだ奇蹟を求めるやうに、敷石や池の跡がその儘残つてゐるあたりに佇んだ。八月六日の朝、彼は屋内にゐたため助かつたのだが、それも家が顛覆してゐたらどうなつたかわからない。壁や畳は散乱したが、その家の柱は静かにあの時錯乱を支へてゐた。――子供の頃、彼はよく母からその家の由来をきかされてゐた。父は一度ここへ新しい家を建てさせた。ある時、地震で壁にかすかな亀裂が生じると、父は忽ちその家作を解かせて、それから今度は根底から吟味を重ね新しく岩乗な普請をさせた。この亡父の用心深さが四十年後、彼の命を助けたのだつた。
 土地売却の話は漠然としてゐたが、買手が見つからないとも限らなかつた。「そんなに最後のものまで手離して一体このさきどうするつもりなのか」兄は呟くのだつたが、強く反対するのでもなかつた。
 彼は外に出た序に久振りにその焼跡の自分の土地を眺めようと思つて川端の方へ立寄つたが、草が茫々と繁つてゐて、どの辺に家があつたのかも見当がつかなかつた。そこの借家は母の遺産として彼が貰つたのだが、次兄がずつと棲んでゐた。生涯に一度はあの川端の家で暮してみたい、と妻は旅先の佗住居でよく彼に話してゐ
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