彼は広島へ赴いた。
 東京を離れて十八時間汽車に乗つただけで、彼の眼は久しく忘れてゐた野や山の緑色に魅せられてゐたが、それは今、バラツクのまはりにも微風とともにそよいでゐた。縁側に腰を下して見渡すと、この家の麦畑の向に可憐な水色の木造洋館がある。それは音楽学校であつたが、ふと彼の目には原子爆弾から突如生誕した建物のやうな気もする。その凹凸の小路をヴアイオリンのケースを提げた若者たちがいそいそと通つてゐた。物置小屋の前の花畑には金盞花、矢車草、スイートピイなどが咲き揃つてゐた。
 彼は下駄をつつかけて辺りを歩き廻つてみた。中野の甥もたまたま春休みで此処へ戻つてゐた。「あの木だ」と甥は指ざし教へてくれた。庭にあつた樹木は悉く焼け滅んだのに、その黒焦の楓の幹からふと青い芽が吹き出したのは昨年のことだつた。豆畑の中に立つその楓は今も美しい小さな若葉を見せてゐた。……昔の位置のままの井戸に近寄つて、内側を覗くと、石で囲はれた隙間に歯朶は青々と茂つてゐる。この歯朶も恐らく劫火のなかに生命を保つて来たものだらう。麦畑の中にある、もう一つの井戸にはたしか蛙が棲んでゐるといふが、それも奇蹟かもしれなかつ
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