日から値上のため釣銭に手間どつて一向捗らない。人々はしかし殆ど無感覚に列を組んでゐる。(苛立つな、麻痺せよ、遅緩して、石になれ)悪意の声がふと彼の耳に唸るのであつた。
〈人生ハ百万台ノ トラツクガ 疾走スルナカヲ 駈ケヌケル ヤウナモノサ〉
 旅に出て愛人と悲壮を得た友のハガキであつた。彼もまた夢の中で左右から数万台のトラツクに脅威される。もはや人生は彼にとつて満員列車以上に身動きできなかつた。が、たまたま一人の友人の厚意により神田の某事務所の一室が空けてもらへたのは奇蹟のやうだつた。リヤカー一台に荷を纏め彼はボストンバツグ一つで中野を脱出することができた。

 ニユー・アダムの囁は、その雑然とした事務所全体の発散する絶え間ない音響に混ざつて、近づいたり消えたりする。彼と彼の部屋は相変らず百万台のトラツクの下を逃げ惑つてゐるような気もした。襖一重向の廊下はドタドタと足音で乱れ、電話の滅茶苦茶の喚叫や、高低さまざまの人声が、襖の彼方は彼の理解できない性質のビジネスらしかつたが、つねにざわざわと沸き立ちながら、逆上のやうに建ものの中を流れて行くのだ。
 彼は茫然として万年筆のペン先を視詰め
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