けて投身自殺を試みる。自殺は成功した。だが、死んだ筈の彼は、ふと気がつくと、一向に情況は変つてゐないのだ。両手片足の捩げた男、血まみれの裸女、全身糜爛の怪物、内臓の裂けて喰みだす子供、無数の亡者、無数の死体がすぐ彼の側を犇めきあひ、ぞろぞろと押されて進んで行く。ざわざわした人声のなかから、「もう墓地なんかありはしないよ」と鋭い悲しげな声が聴きとれる。どこへ、それでは何処へ?……どこへ行つたつて、もう君たちの憩へる場所はないのだ。)――かうした「悪意ある童話」の断片はいつとはなしに彼のなかに蓄積されてゐた。
「人間は一本の葦に過ぎない。自然のうちで最も弱いものである。だが、それは考へる葦である。彼を圧し潰すには、全宇宙が武装するを要しない。一吹の蒸気、一滴の水でも彼を殺すに充分である。しかし……」
彼がノートに書とめてゐるパスカルの言葉を読んできかせると、若い甥は目を輝かす。大学に籍はありながら、これまで殆ど纏つた勉強の出来なかつた甥は終戦後、飢ゑてゐるやうに書物を読みたがつた。だが、この二人が「考へる葦」として許されてゐる時間は極く限られてゐた。この部屋の主人公が戻つて来れば忽ち事情は一変する。頗る無表情な顔で、その医学生は脱ぎ捨てた服をポンと部屋の片隅に放りつける。すると、甥の顔つきは見る見るうちに戸惑つて行く。その甥の姿を見てゐると彼も直ぐ弾き出されるやうに、「さうだ、一刻も早くここを立去らねば」と外へ出てゆく。それから何か貸間の的があるかのやうに雑沓のなかを歩いてゐる。軒下にぎつしり並んだ露店や、あたりに犇めいてゐる人波は、みんな絡れあつて彼の眼に流れ込んでくる。「やつて来るぞ、やつて来るぞ」と、奇怪な狂気に似た囁があつた。
そのうちに、部屋の主人公が休暇で帰省し、つづいて甥も休暇で郷里へ帰つて行くと、切迫した気分が一時に緩んだ。荒れはててゐる部屋だつたが、それでもとにかく下宿屋の六畳らしい落着があつた。日が沈んで、一日中ギラギラ光つてゐた窓の外が漸く穏かになる頃、彼はごろりと畳の上に寝そべつて、その部屋の天井板や柱をぼんやりと眺めた。妻と死別した男が火と飢ゑの底をくぐり抜け漸く雨露を凌げる軒に辿りついたやうな気持がするのだつた。
〈ボクハ コノ地上デ受ケタ魂ノ疵ヲコノ地上デ医ヤシタイノダ アマストコロアト 七千日……〉
旅先で新しい愛人を得て、東京へはもう戻らないと宣言した友からの手紙だつたが、異常な悲壮が揺れうごいてゐた。あの男が揺れうごいてゐるのか、この地球が揺れうごいてゐるのか……。凝と考へてゐると、茫漠とした巨大な感覚が彼を呑込んでしまはうとするのだつた。
休暇があけて甥が中野へ戻つて来ると、彼は再び緊迫した気持に戻つた。数少ない知人の間を廻つては、貸間のことを頼んだが、「さあ、部屋はね……」と誰もこれには確答ができなかつた。だが、焼跡には少しづつバラツクが建つてゐた。いつも彼は電車の窓から燃えるやうな眼ざしでそれを眺めた。鋏とボール紙で瞬く間に一都市が出来上つてゆく、映画のなかの素晴しい情景は、眼の前にある切ない夢とごつちやになつた。……ある日、藁にもとり縋る気持で、先輩を訪ねてみた。貸間の権利金について相談を持ちかけると、「いやあ、そいつはね……」と、もの柔かに断られた。徒労だつたと分ると彼はさばさばした気持で、この失敗を甥に打ちあけた。
「なるほどね、今となつては誰も僕のやうな者を相手にしてくれないのが当前だつた」
絶望と滑稽感が犇きあつた。ふと彼はまた、もう一つの藁を夢みるやうに口走つた。
「広島の土地は、あれはどうしても売れないものかしら」
それは前から兄たちに問合せたり、甥にも訊ねてゐたが、焼跡の都市計画が進捗しないため、何とも判断できないのだつたが、何も彼も剥ぎ奪つてしまふ怪物が既にその土地を呑込んでゐたとしても彼は差程驚かなかつたかもしれない。
「うん、近頃、畳一枚の値段で売買されてるよ」
甥の意外な言葉で、彼は急に眼を輝かしだした。
「畳、一枚、それでは……」
それでは、とにかく、彼の所有地を売却すれば今後一年位は生きのびて行けさうな計算だつた。
「助かつた、助かつた、それでは……」
おかしい程、彼はいきいきと興奮してゐた。身代金が出来たのだつた。そいつを怪物の口に投げ与へて置けば、相手の追撃からまだまだ、ずらかつて行ける。生きのびよう、生きのびよう、(しかし、何のために?)しかし、とにかく生きのびて行きたかつた。
そのうちに医学生も戻つて来た。「済みません、済みません、極力部屋を探してはゐますが」と彼は今暫くの猶予を哀願するばかりだつた。甥の顔には繊細な心づかひが漲つた。……踵まで火がついたやうな気持で、彼はいらいらと歩き廻つた。夕刊を買はうと思つて並んだ行列が、急にその
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