日から値上のため釣銭に手間どつて一向捗らない。人々はしかし殆ど無感覚に列を組んでゐる。(苛立つな、麻痺せよ、遅緩して、石になれ)悪意の声がふと彼の耳に唸るのであつた。
〈人生ハ百万台ノ トラツクガ 疾走スルナカヲ 駈ケヌケル ヤウナモノサ〉
 旅に出て愛人と悲壮を得た友のハガキであつた。彼もまた夢の中で左右から数万台のトラツクに脅威される。もはや人生は彼にとつて満員列車以上に身動きできなかつた。が、たまたま一人の友人の厚意により神田の某事務所の一室が空けてもらへたのは奇蹟のやうだつた。リヤカー一台に荷を纏め彼はボストンバツグ一つで中野を脱出することができた。

 ニユー・アダムの囁は、その雑然とした事務所全体の発散する絶え間ない音響に混ざつて、近づいたり消えたりする。彼と彼の部屋は相変らず百万台のトラツクの下を逃げ惑つてゐるような気もした。襖一重向の廊下はドタドタと足音で乱れ、電話の滅茶苦茶の喚叫や、高低さまざまの人声が、襖の彼方は彼の理解できない性質のビジネスらしかつたが、つねにざわざわと沸き立ちながら、逆上のやうに建ものの中を流れて行くのだ。
 彼は茫然として万年筆のペン先を視詰める。それから外食のため外に出かけると、さつき視詰めたペン先がふと眼の前にちらつく。すると小さな万年筆ながら実に物凄く、まるで巨大な針のやうなのだ。何か制するに困難な無限感が湧上つて、そのなかに針は突立つて行かうとする。彼はほとほと困惑しながら事務所の二階に戻つて来る。それから、ごろりと畳の上に横たはり、天井を眺めてゐると、今度は彼の体全体が一つの巨大な針のやうに想へる。たしかに、その針は磁石のやうに一つの極を指差してゐる。ぎしぎしとその二階がゆるく回転し畳はむくむく揺れてゐるやうだが、彼の思考は石のやうに動かうとしない。だが、眼の前にあるこの無限感は、忽ち、(あツといふ叫びとともに)彼の上に崩れ墜ちさうになるのだ。
(ニユー・アダム、ニユー・アダムよ、待つてくれ給へ。僕は君を君の郷土へ連れて行かう。ほんとなのだ、どのみち、僕は少しばかしの所有地を売却するため近く広島へ行つて来たいと思つてゐる。だから、その時はきつと君をつれて行くから、まあ少し待つてくれ給へ。)
 土地の売却は兄に頼んであつたが、なかなか返事がなかつた。そのうちにも彼の生活は底をついて来た。踵に火のついた想ひで、とうとう彼は広島へ赴いた。
 東京を離れて十八時間汽車に乗つただけで、彼の眼は久しく忘れてゐた野や山の緑色に魅せられてゐたが、それは今、バラツクのまはりにも微風とともにそよいでゐた。縁側に腰を下して見渡すと、この家の麦畑の向に可憐な水色の木造洋館がある。それは音楽学校であつたが、ふと彼の目には原子爆弾から突如生誕した建物のやうな気もする。その凹凸の小路をヴアイオリンのケースを提げた若者たちがいそいそと通つてゐた。物置小屋の前の花畑には金盞花、矢車草、スイートピイなどが咲き揃つてゐた。
 彼は下駄をつつかけて辺りを歩き廻つてみた。中野の甥もたまたま春休みで此処へ戻つてゐた。「あの木だ」と甥は指ざし教へてくれた。庭にあつた樹木は悉く焼け滅んだのに、その黒焦の楓の幹からふと青い芽が吹き出したのは昨年のことだつた。豆畑の中に立つその楓は今も美しい小さな若葉を見せてゐた。……昔の位置のままの井戸に近寄つて、内側を覗くと、石で囲はれた隙間に歯朶は青々と茂つてゐる。この歯朶も恐らく劫火のなかに生命を保つて来たものだらう。麦畑の中にある、もう一つの井戸にはたしか蛙が棲んでゐるといふが、それも奇蹟かもしれなかつた。
 彼はまだ奇蹟を求めるやうに、敷石や池の跡がその儘残つてゐるあたりに佇んだ。八月六日の朝、彼は屋内にゐたため助かつたのだが、それも家が顛覆してゐたらどうなつたかわからない。壁や畳は散乱したが、その家の柱は静かにあの時錯乱を支へてゐた。――子供の頃、彼はよく母からその家の由来をきかされてゐた。父は一度ここへ新しい家を建てさせた。ある時、地震で壁にかすかな亀裂が生じると、父は忽ちその家作を解かせて、それから今度は根底から吟味を重ね新しく岩乗な普請をさせた。この亡父の用心深さが四十年後、彼の命を助けたのだつた。
 土地売却の話は漠然としてゐたが、買手が見つからないとも限らなかつた。「そんなに最後のものまで手離して一体このさきどうするつもりなのか」兄は呟くのだつたが、強く反対するのでもなかつた。
 彼は外に出た序に久振りにその焼跡の自分の土地を眺めようと思つて川端の方へ立寄つたが、草が茫々と繁つてゐて、どの辺に家があつたのかも見当がつかなかつた。そこの借家は母の遺産として彼が貰つたのだが、次兄がずつと棲んでゐた。生涯に一度はあの川端の家で暮してみたい、と妻は旅先の佗住居でよく彼に話してゐ
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