童話」――それは彼が原子爆弾遭難以来、絶えず条件に追ひつめられ追ひまくられて行く窮鼠の心情を述べようとするものだつたが――その題名だけがノートの端に書いてあつた。
 彼はある朝、頭上に真黒な一撃を受け、つづいて家の崩壊を眺め、それからそこを逃出して行つたのだが、あの時から、もはや地上に生存してゆくことを剥奪されたのかもしれなかつた。その後、うちつづく飢ゑと屈辱の底をくぐり抜け、田舎から東京へ出て来たが、そこでも同じやうな条件が待伏せてゐた。彼を迎へてくれた友人の家の細君は、彼がその部屋に居ついて一ケ月も経たないうちに、もうそこを立退いて欲しいと仄めかした。それからそこでは隠忍と飢ゑの生活が一年あまり続いた。が、そのうち彼の友人は社用で遠く旅に出掛け、そのまま消息がなかつた。その友人が旅先で愛人が出来、もはや東京へは戻らないといふ決意を知らせて来たので、彼は早急にそこを立退かうと思つてゐる矢さき、その家の細君からも立退命令を受けた。前からその細君の無気味な顔にいつも脅かされてゐた彼は、火のついたやうに狼狽ててしまつた。彼はその頃、やはり下宿を追出されて、友人の下宿に同居してゐる中野の甥のところへ無理矢理に転がり込んで行つた。それから、そこでも紛糾と困憊の蒸返しであつた。とにかく部屋が見つかる迄といふ約束で泣き附いたのだつたが、彼が持込んで来た荷物を見ただけで、この部屋の主人公は眉を顰《しか》めた。
 歯科医専の学生である、その甥の友人は、その部屋の特別席にあたるテーブルでいつも石膏いぢりをやる。その友人が出掛けて行くと、部屋中に散乱してゐる粉末や破片を甥は丹念に掃除した。人間一人増えたため、この甥は二倍も気を使つてゐたが、一番余計者の彼は片隅に身を縮め、できるだけその存在を目だたないやうに努めた。
 その友人が外に出て行くと、彼と甥は始めて解放されたやうに畳の上にのびのびと横はる。だが、さうしてゐても火がついて追ひまくられてゐるやうな、あちらの岸の火が衰へたかとおもへば、こちらの岸の火が燃え上つてゆく、あの日からひきつづく強迫があつた。衣類を売り書物を手離し餓死とすれすれに生きのびて来ても、インフレは後から後から彼を追つて来るのだ。重傷者がごろごろしてゐる炎天の砂地や、しーんとした死者の叫喚はすぐ眼の前にあつた。身軽に逃げのびて、日蔭に憩つてゐても、すぐ彼の隣では三尺幅の日蔭を争つて、両手片足を捩がれた男と全身血達磨の青年が低い声で唸りあつてゐる。あのとき、見た数々の言語に絶する光景はまだ彼にとつて終結したのではなかつた。……彼は避難民のやうな恰好で、若い甥と話し合ふのだが、この甥と話しあふとお互にもやもやしたものが燃え上つた。
「まるで、とにかく、今では生きてゆくことが吹き晒しの中にまる裸にされてゐるやうな感じがするな」
「だけど、君はまだ帰つて行ける処があるが、僕はもう、あの日から地上の生存権を剥奪されたのだ」
 すると、甥は何か不満さうに彼の言葉に抗議しだした。「そいつは少々言ひすぎだよ。とにかく、あんなひどい目に遇ひながら今日まで生きのびて来られたのは、やはり感謝していいだらう」
 甥は九州の連隊にゐたため惨劇には遭はなかつた。家の焼跡にもその後バラツクが建てられたので、とにかく身を容れる最後の場所だけはあつた。ところが彼の方は今もまだ身一つで逃げ惑つてゐる形だつた。……夢中で全速力で彼は走つてゐるつもりなのだが、忽ち条件が怪物の如く彼の行手を塞ぐ。かと思ふと、血走つた彼の眼には、突然一切がだらけ切つてどうにもならぬ愚劣の連続となる。……炎天の下、今にもつんのめりさうな、ふわふわに腫れ上つた火傷患者に附添つて、彼は立つてゐる。重傷者の列は蜿蜒と続いてゐるが、施療の順番は殆ど無用の手続のため、できるかぎり延期されてゐる。……銀行、郵便局、町会事務所、食糧営団、いたるところの窓口が奇妙な手続で弱者の嘆願を拒んだ。無器用な彼は到る処で悪意に包囲されてゐるやうにおもへた。それは予想を裏切り想像を絶した形で突如出現する。
(……ある瞬間、ある瞬間を境に、地上の凡ては変形してしまつた。到る処に、いたるところに人間が満ち溢れ、もう何処でも食事を摂ることも身を横たへることも困難になる。更に人間の増えてゆく予感がこの時ぞくぞくと彼を脅かし、「逃げよ、逃げよ、今度こそ失敗るな」といふ声がする。だが、彼は今暫らく情況を確かめた上でと躊躇つてゐる。そのうちにも人間はぐらぐらと増えてゆく。今はもう呼吸をすることすら困難になつた。切羽詰つて無我夢中で左右の人間を押しのけ、鉄道線路めがけて逃げ出す。が、線路のところは、ここはもう先を争ふ人々で身動きもならない。ふらふらになりながら列に押され、列をくぐり抜け、どうにかかうにか、今突進してくる急行列車目が
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