た。その妻とも死別れ、彼が広島の長兄の家に寄寓するやうになると、もう空襲警報の頻発する頃であつたが、彼はよくその次兄の家へ立寄つた。玄関に佇めば庭と座敷と川が一目に見渡せた。その庭の滴るばかりの緑樹は殆どこの世の見おさめのやうに絢爛としてゐた。今もふと暖かい春の陽気が、あの頃の不思議な巷の感覚を甦らせた。塀越しにそよいでゐたアカシアの悩ましげな青葉……恐怖に張りつめられて青く美しかつた空……それらが胸をふさぐやうだつた。
饒津公園の方へ歩いて行くと、その辺は重傷者と死骸のごろごろしてゐた路だが、今は快適な温度と陽の光がひつそりと砂の上に溢れてゐるのだつた。烈しい火炎に包まれて燃え上つた兵営の跡は、住宅地域になつて、マツチ箱のやうな家が荒い路に並んでゐる。それから、駅の広場へ出ると、ここは闇市の雑沓ぶりで、突然彼の頭上から広告塔の女の声が叫びかけたりする。新しい雑沓や悲しげな荒廃の巷を歩き廻つてゐるうちに、何とも名ざすことのできない情感が満ちて来た。
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世は去り世は来《きた》る 地は永久《とこしへ》に長存《たもつ》なり
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次第に彼は少年の頃の憧憬に胸を締めつけられるやうな疼きをおぼえた。……彼がその昔その街の姿を所有してゐたと同じやうに、恐らくこれからの少年たちはこの街の新しい姿を疑はないだらう。彼がその昔、母の口から恐ろしい昔話を聴いたと同じやうに、焔の中に生きのびた少女たちはやがてその息子にあの戦慄の昔話を語るであらう。だが戦慄はまこと、その少女たちの記憶だけで地上から消滅するであらうか。測り知れない、答へてもくれないものが、まだ何処かに感じられる。(もしも人類が自らの手で自滅を計るとしても恐らく草木は焼跡に密生し、爬虫類は生き残るであらう)ニユー・アダムは微かに悲しげに呟く。
ある日、雨に降り籠められて、彼は甥と雑談に耽つてゐたが、
「原子力以外にまだ発見されてゐないものがあるだらう」
ふと、その言葉が口を滑り出ると、彼のなかにニユー・アダムがギラギラと眼を輝かしだした。何を描かうとするのか煽りださうとするのか、とにかく激しく悩ましいものが一時に奔騰した。そして彼はやたらに異常なことがらを喋りまくつた。
「今にきつと人類全体の消費する食糧なんか三日間で一年分生産できるやうになるよ、今に」
「うーん」と甥は
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