曖昧に頷くのだが、彼の方は向に見えてゐる麦畑が既に幼稚きはまる過去の人類の遺跡のやうに思ひだす。
「今にすると、田地なんかもう不要になつて住宅難は昔の夢になる。その頃になれば、無機物から生物を創造することも出来るし、どんな人間の精神でも狂ひなく立派に調節できるやうになる。それどころか、人間の生命だつて、今の二倍三倍四倍位には延長できる」
 今あらゆる可能性が高揚して天蓋を覆ひ尽さうとした。できる、できる、何でもできるのだ、しかし……。ニユー・アダムは空想の頂点に達することはできなかつた。
 二三日つづいた雨が霽れると、地面の緑が遽かにいきいきと感じられ、バラツクのまはりの草花のそよぎは何か彼を遙かなところへ誘ふ囁のやうだつた。彼はふらりと外に出ると、昔よく登つたことのある比治山の方へ歩いて行つた。その山は橋の上から眺めても以前の比治山とは変つて何か生彩を喪つてゐることがわかつたが、麓のところまで行くと、あの時の光線で剥ぎ奪られたものが密度のない木立に感じられた。ゆるい坂路を彼は何気なく昇つてゐた。と、何かキラキラ光るものが向にあるやうにおもへた。彼は異常な心のときめきを覚えながら、その方へ近づいて行つた。それは生気ないあたりの草木のなかにあつて、ずばぬけて美事な、みづみづしい樫の大木であつた。まるで巨大な天の蝋燭のやうに、その樹は彼の眼に喰入つて来た。

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「近代文学」
   1948(昭和23)年10月号
※連作「原爆以後」の4作目。
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年7月20日作成 
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