紅の焔が鎮まつたかとおもふと、やがて、あの冷たい透き徹つた不思議な焔がやつて来た。飢餓の焔だ。兄の一家族や寡婦の妹と一緒に農家に避難した僕は、それから後、絶えずこのしぶとい悲しい焔に包囲されてゐた。それは台所の汚れかへつた畳の上でも、煤けた穴だらけの障子の蔭でもめらめらと燃えた。それから青田の上でも、向に見える山の上でもめらめらと透き徹る焔はゆらいだ。空間が小刻みに顫へて、頭の芯が茫として来る。このやうな時――人間は何を考へるのか――このやうな時、人間は人間の……人間の白い牙がさつと現れた。妹と嫂は絶えず何ごとか云つて争つてゐた。
「口惜しくて、口惜しくて、あの嫁を喰ひちぎつてやりたい」
飢ゑてはゐない隣家の農婦が庭さきで歯ぎしりしてゐた。その言葉は、しかし、ぴしりと僕を打つた。喰ひちぎつてやりたい……人間が人間を喰ひちぎる……一瞬にして変貌する女の顔がパツと僕のなかで破裂したやうだつた。
悲しげな無数の焔に包囲されて、僕が身動きもできないでゐる時、しかし、人々は軽ろやかに動いてゐた。爆心地で罹災して毛髪がすつかり脱けた親戚の男は、田舎の奥で奇蹟的に健康をとり戻し、惨劇の年がまだ明
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