よく出逢ふやうになつてゐた。女の勤先があまり遠くない所にあるのも彼には分つた。電車通りから少し外れると、人通りの少い静かな道路がある。時々、そんな路を女はふらりと歩いてゐることがあつた。路でぱつたりと彼に出逢ふと、女はすぐ人懐さうに彼に従いて歩いた。彼は殆ど黙つて歩いた。
「お忙しいでせう、失礼します」
 女は曲角ですらりと離れる。それからお辞儀をして、小刻に歩いて行く。忙しさうなものに掻き立てられてゆく後姿だけが彼の眼に残つた。何度、行逢つても、あつけない遭遇にすぎなかつたが、女は人混みのなかでも彼の姿をすぐ見わけた。女が雑踏のなかに消え去ると、……揺れ返る空間の波が忽ち大きくなる。ああして、女がこの世に一人存在してゐること、それは一たい何なのだ? そして今ここで何なのだと僕が思考してゐること、それは一たい僕にとつて何なのだ? と急にパセチツクな波が昂まつて、この世に苦しむものの、最後の最後の一番最後のものの姿がパツと閃光を放つ。
 ……火の唇  ……火の唇
 ふと彼はその頃、書きたいと思つてゐる一つの小説の囁をきいたようにおもつた。
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 燃え狂ふ真
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