り出されると、彼はとにかく往来へ出て行つた。忽ち揺れ返る空間が大きくなつてゐた。鉈を振るつて彼の手首を断ち切らうとするのが、先刻の老人のやうにおもへたりする。ふらふらと歩いて行くうち、ふと彼は知人のKが弁護士らしい男と連れだつてゐるのに出喰はした。Kはその所有してゐるビルを他に貸してゐたが、その半分を自分の側に開け渡さすため前々から交渉に交渉を重ねてゐた。約束の日は今日だつた。日が暮れかかる頃、漸く二階の一室が譲渡された。その時から、彼はその二階の一室を貸してもらつたのだが。……揺れ返るものは絶えずその部屋を包囲してゐた。襖と廊下を隔てて向側にある事務室は電話の叫喚と足音に入り乱れ、人間が人間を捻ぢ伏せたり、人間が人間を撫でまくる、さまざまのアクセントを放つ。男も女も男もそれは一塊りの声であり、バラバラの音響なのだ。彼と何のかかはりもない、それらの一群が夕方退去すると、今度は灯の消えた廊下を鼠の一群が跳梁する。それから、彼が外食に出掛けたり、近所にある雑誌社に立寄ると、街が、活字が、音楽が、何かが何かを煽り、何かが何かと交錯して来た。
そのビルの一室に移つてから、彼はあの淋しげな女と
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