のがあつた。赤いマフラをした女の眼だ。あの女……かもしれないと思つた瞬間、彼はもう視線を他へ外らしてゐた。が、ものの三十秒とたたないうちに、彼は後から呼び留められてゐた。
「平井さん かしらと思ひました」
 女はさう云つたまま笑はうとしなかつた。彼も無表情に立つてゐた。
「今日はこれから訪ねて行くところがあるので失礼致しますが、またそのうちにお逢ひできるでせう」
 ふと女は忙しさうに立去つて行つた。彼も呼び留めようとはしなかつた。

 そのビルの一室が開けてもらへるかどうかはつきりしなかつたが、彼の全家財を積んだ一台のリヤカーはもうその建物の前に停まつてゐた。彼は運送屋と一緒にそのビルの扉を押して、事務室らしい奥の方へ声をかけた。濛々と煙るその煙のなかに人間の顔がぐらぐら揺いだ。彼の前に出て来た小柄の老人は冷然と彼を見下ろして云つた。
「部屋なんか開ける約束になつてゐない」
 彼はドキリとした。とにかくKに逢つてみれば解ることだが、荷物だけでもここへ置かしてもらはねば、差当つて他へ持つて行ける所もなかつた。
「それなら土間のところへ勝手にお置きなさい」
 夜具と行李とトランクが土間に放
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