が、漸く近づいたボートは既に遭難者で一杯なのだ。彼は無我夢中でボートの端に手を掛ける。と、忽ち頭上で鋭い怒声がする。
「離せ! この野郎!」
だが、彼は必死で船の方へ匐ひ上らうとする。
「こん畜生! その手をぶつた切るぞ!」
いま相手はほんとに鉈を振上げて彼の手を覘つてゐるのだ。彼は縋りつくやうに、その男の眼を波間から見上げる。眼だけで、縋りつくやうに、波間から……波間から……波間から……。
宿なしの彼は同宿者に対する気兼ねから、饉じい体を鞭打ちながら、いつも用ありげに巷の雑沓のなかを歩いてゐた。金はなく、彼の関係してゐる雑誌も久しく休刊したままだつた。知人のKが所有するビルの一室が、もしかすると貸してもらへるかもしれないといふ微かな望みがあつたが、いつも波間に漾つてゐるやうな気持で雑沓のなかを歩いてゐた。……彼の歩いてゆく前面から冬の斜陽がたつぷり降り灑ぎ、人通りは密になつてゐた。省線駅の広場の方まで来てゐたのだ。その時、恰度電車から吐き出された群衆が、改札口から広場へ散つて行くのだつた。彼は何気なく一塊りの動く群に眼を振向けてみた。と、何か動く群のなかにピカツと一直線に閃くも
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