のなかに黒く腫れ上つた少女の顔がある。その眼が、彼の姿を認めると、眼だけが少女らしくパツと甦る。
「連れて帰つて下さい、連れて帰つて、みんなのところへ」
その眼は、眼だけで彼にとり縋らうとしてゐた。
「それはさうしてあげたいのだが……」
彼はかすかに泣くやうに呟くと、持つて来た蒲団をおくと、まるで逃げるやうにして立去る。その後、少女は死亡したのだ。だが、あの悲しげな少女の眼つきは、いつまでも彼のなかに突立つてゐた。
わたしと交際つてみて下さいと約束して、反対の方向に駅で別れた女の眼つきを彼は思ひ出さうとしてゐた。その眼は祈りを含んだ眼だらうか、彼のなかに突立つてくるだらうか、……何か揺れ返る空間の波間にみた幻のやうにおもへた。
轟音もろとも船は転覆する。巨濤が人間を攫い、閃光が闇を截切る。あたり一めん人間の叫喚……。叫ぶやうに波を掻き分け、喚くやうに波に押されながら、恐しい渦のなかに彼はゐる。しぶきが頬桁を撲り、水が手足を捩ぎとらうとする。刻々に苦しくなつてゆく眼に、ふと仄明りに漾つてゐるボートが映る。と、その方向へ、ひたすら、そこへ、一インチ、一インチとすべてが蠕動してゆく。
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