り抜けたあとの速さだけがわたしの耳もとで唸る。わたしの眼は、わたしが眼をあけたとき、濛々としてゐるものが静まつて、崩れ落ちたものが、しーんとしてゐた。どこかで無数の小さな喚きが伝はつてくる。風のやうなものは通りすぎてゐたのに、風のやうなものの唸りがまだ迫つてくる。あのとき、すべてはもう終つてゐるのだ。だのに、これから何か始まりさうで、そわそわしたものがわたしのなかで揺れうごいた。……」
「火の唇」の書きだしを彼はノートに誌してゐたが、惨劇のなかに死んでゆくこの女性は一たい誰なのか、はつきりしなかつた。が、独白の囁は絶えず聞えた。永遠の相に視入りながら、死の近づくにつれて、心の内側に澄み亘つてくる無限の展望……。突如、生の歓喜が、それは電撃の如くこの女を襲ひ、疾風よりも烈しくこの女を揺さぶる。まさに、その音楽はこの女を打砕かうとする。ああ、一人の女の胸に、これほどの喜びが、これほどの喜びが許されてゐていいので御座いませうか、と、その女は感動してゐる自分に感涙しながら跪く。と、時は永遠に停止し、それからまたゆるやかに流れだす。
こんな情景を追ひながらも、彼は絶えず生活に追詰められてゐた。
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