よく出逢ふやうになつてゐた。女の勤先があまり遠くない所にあるのも彼には分つた。電車通りから少し外れると、人通りの少い静かな道路がある。時々、そんな路を女はふらりと歩いてゐることがあつた。路でぱつたりと彼に出逢ふと、女はすぐ人懐さうに彼に従いて歩いた。彼は殆ど黙つて歩いた。
「お忙しいでせう、失礼します」
女は曲角ですらりと離れる。それからお辞儀をして、小刻に歩いて行く。忙しさうなものに掻き立てられてゆく後姿だけが彼の眼に残つた。何度、行逢つても、あつけない遭遇にすぎなかつたが、女は人混みのなかでも彼の姿をすぐ見わけた。女が雑踏のなかに消え去ると、……揺れ返る空間の波が忽ち大きくなる。ああして、女がこの世に一人存在してゐること、それは一たい何なのだ? そして今ここで何なのだと僕が思考してゐること、それは一たい僕にとつて何なのだ? と急にパセチツクな波が昂まつて、この世に苦しむものの、最後の最後の一番最後のものの姿がパツと閃光を放つ。
……火の唇 ……火の唇
ふと彼はその頃、書きたいと思つてゐる一つの小説の囁をきいたようにおもつた。
………………………………………
燃え狂ふ真紅の焔が鎮まつたかとおもふと、やがて、あの冷たい透き徹つた不思議な焔がやつて来た。飢餓の焔だ。兄の一家族や寡婦の妹と一緒に農家に避難した僕は、それから後、絶えずこのしぶとい悲しい焔に包囲されてゐた。それは台所の汚れかへつた畳の上でも、煤けた穴だらけの障子の蔭でもめらめらと燃えた。それから青田の上でも、向に見える山の上でもめらめらと透き徹る焔はゆらいだ。空間が小刻みに顫へて、頭の芯が茫として来る。このやうな時――人間は何を考へるのか――このやうな時、人間は人間の……人間の白い牙がさつと現れた。妹と嫂は絶えず何ごとか云つて争つてゐた。
「口惜しくて、口惜しくて、あの嫁を喰ひちぎつてやりたい」
飢ゑてはゐない隣家の農婦が庭さきで歯ぎしりしてゐた。その言葉は、しかし、ぴしりと僕を打つた。喰ひちぎつてやりたい……人間が人間を喰ひちぎる……一瞬にして変貌する女の顔がパツと僕のなかで破裂したやうだつた。
悲しげな無数の焔に包囲されて、僕が身動きもできないでゐる時、しかし、人々は軽ろやかに動いてゐた。爆心地で罹災して毛髪がすつかり脱けた親戚の男は、田舎の奥で奇蹟的に健康をとり戻し、惨劇の年がまだ明けないうちに、田舎から新しい細君を娶つた。無数の変り果てた顔の渦巻いてゐた廃墟を、無数の生存者が歩き廻つた。廃墟の泥濘の上の闇市は祭日のやうであつた。人々はよろめきながら祭日をとり戻したのだらうか。僕もよろめきながら見て歩いた。今にもぶつ倒れさうな痩男がひらひらと紙幣を屋台に差出し、手で把んだものをもう口に入れてゐた。めらめらとゆらぐ焔は到る処にあつた。復員者はそこここに戻つて来て、崩壊した駅は雑踏して賑はつた。その妻子を閃光で攫はれた男は晴着を飾る新妻を伴つて歩いてゐた。速やかに、軽ろやかに、何気なく、そこここに新しい巣が営まれた。
「もう決して何も信じません。自分自身も……」
罹災を免れ家も壊されなかつた中年女は誇らかに嘯くのだが。……寡婦の妹は絶えず飢餓からの脱出を企ててゐた。リユツクを背負ふ面窶れした顔は、若々しい力を潜め、それが生きてゆくための最後の抗議、堕ちて来る火の粉を払はうとする表情となつてゐた。だが、どうかすると、それは血まみれの亡者の面影に見入つて、キヤツと叫ぶ最後の眼の色になつてゐる。悶え苦しむ眼つきで、この妹が僕に同情してくれると僕はぞつとした。たしかその眼は、もうあの白骨の姿を僕のうちに予想する眼だつた。
だが、その年が明けると、その妹にも急に再縁の話が持ち上つてゐた。その話をはじめてきいた日、僕は村の入口の橋のところで、リユツクを背負つてやつて来る妹とぱつたり出逢つた。立話をしてゐるうちに、僕はふと涙が滲んで来た。(涙が? それは後で考へてみると、人間一人餓死を免れたのを悦ぶ涙らしかつた。)だが、その僕はまだ助かつてはゐなかつた。焔は追つて来た。滅茶苦茶にあがき廻つた揚句、僕は東京の昔の友人のところへ逃げ込んだ。
だが、僕を迎へてくれた友人の家も忽ち不思議な焔に包囲された。飢餓の火はじりじりと燻んで、人間の白い牙はさつと現れた。一瞬にして、人間の顔は変貌する。人間は一瞬の閃光で変貌する。長い長い不幸が人間を変貌させたところで、何の不思議や嘆きがあらう。――日夜、その家の細君のいかつい顔つきに脅えながら、僕はひとり心に囁いてゐた。
紅の衣服にて育てられし者も今は塵堆を抱く――乞食のやうな足どりで、僕は雑踏のなかや、焼跡の路を歩いた。焼跡の塵堆に僕の眼はくらくらし、ひだるい膝は前にずんのめりさうだつた。と頭上にある青空が、さつと透き徹
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