のなかに黒く腫れ上つた少女の顔がある。その眼が、彼の姿を認めると、眼だけが少女らしくパツと甦る。
「連れて帰つて下さい、連れて帰つて、みんなのところへ」
その眼は、眼だけで彼にとり縋らうとしてゐた。
「それはさうしてあげたいのだが……」
彼はかすかに泣くやうに呟くと、持つて来た蒲団をおくと、まるで逃げるやうにして立去る。その後、少女は死亡したのだ。だが、あの悲しげな少女の眼つきは、いつまでも彼のなかに突立つてゐた。
わたしと交際つてみて下さいと約束して、反対の方向に駅で別れた女の眼つきを彼は思ひ出さうとしてゐた。その眼は祈りを含んだ眼だらうか、彼のなかに突立つてくるだらうか、……何か揺れ返る空間の波間にみた幻のやうにおもへた。
轟音もろとも船は転覆する。巨濤が人間を攫い、閃光が闇を截切る。あたり一めん人間の叫喚……。叫ぶやうに波を掻き分け、喚くやうに波に押されながら、恐しい渦のなかに彼はゐる。しぶきが頬桁を撲り、水が手足を捩ぎとらうとする。刻々に苦しくなつてゆく眼に、ふと仄明りに漾つてゐるボートが映る。と、その方向へ、ひたすら、そこへ、一インチ、一インチとすべてが蠕動してゆく。が、漸く近づいたボートは既に遭難者で一杯なのだ。彼は無我夢中でボートの端に手を掛ける。と、忽ち頭上で鋭い怒声がする。
「離せ! この野郎!」
だが、彼は必死で船の方へ匐ひ上らうとする。
「こん畜生! その手をぶつた切るぞ!」
いま相手はほんとに鉈を振上げて彼の手を覘つてゐるのだ。彼は縋りつくやうに、その男の眼を波間から見上げる。眼だけで、縋りつくやうに、波間から……波間から……波間から……。
宿なしの彼は同宿者に対する気兼ねから、饉じい体を鞭打ちながら、いつも用ありげに巷の雑沓のなかを歩いてゐた。金はなく、彼の関係してゐる雑誌も久しく休刊したままだつた。知人のKが所有するビルの一室が、もしかすると貸してもらへるかもしれないといふ微かな望みがあつたが、いつも波間に漾つてゐるやうな気持で雑沓のなかを歩いてゐた。……彼の歩いてゆく前面から冬の斜陽がたつぷり降り灑ぎ、人通りは密になつてゐた。省線駅の広場の方まで来てゐたのだ。その時、恰度電車から吐き出された群衆が、改札口から広場へ散つて行くのだつた。彼は何気なく一塊りの動く群に眼を振向けてみた。と、何か動く群のなかにピカツと一直線に閃くものがあつた。赤いマフラをした女の眼だ。あの女……かもしれないと思つた瞬間、彼はもう視線を他へ外らしてゐた。が、ものの三十秒とたたないうちに、彼は後から呼び留められてゐた。
「平井さん かしらと思ひました」
女はさう云つたまま笑はうとしなかつた。彼も無表情に立つてゐた。
「今日はこれから訪ねて行くところがあるので失礼致しますが、またそのうちにお逢ひできるでせう」
ふと女は忙しさうに立去つて行つた。彼も呼び留めようとはしなかつた。
そのビルの一室が開けてもらへるかどうかはつきりしなかつたが、彼の全家財を積んだ一台のリヤカーはもうその建物の前に停まつてゐた。彼は運送屋と一緒にそのビルの扉を押して、事務室らしい奥の方へ声をかけた。濛々と煙るその煙のなかに人間の顔がぐらぐら揺いだ。彼の前に出て来た小柄の老人は冷然と彼を見下ろして云つた。
「部屋なんか開ける約束になつてゐない」
彼はドキリとした。とにかくKに逢つてみれば解ることだが、荷物だけでもここへ置かしてもらはねば、差当つて他へ持つて行ける所もなかつた。
「それなら土間のところへ勝手にお置きなさい」
夜具と行李とトランクが土間に放り出されると、彼はとにかく往来へ出て行つた。忽ち揺れ返る空間が大きくなつてゐた。鉈を振るつて彼の手首を断ち切らうとするのが、先刻の老人のやうにおもへたりする。ふらふらと歩いて行くうち、ふと彼は知人のKが弁護士らしい男と連れだつてゐるのに出喰はした。Kはその所有してゐるビルを他に貸してゐたが、その半分を自分の側に開け渡さすため前々から交渉に交渉を重ねてゐた。約束の日は今日だつた。日が暮れかかる頃、漸く二階の一室が譲渡された。その時から、彼はその二階の一室を貸してもらつたのだが。……揺れ返るものは絶えずその部屋を包囲してゐた。襖と廊下を隔てて向側にある事務室は電話の叫喚と足音に入り乱れ、人間が人間を捻ぢ伏せたり、人間が人間を撫でまくる、さまざまのアクセントを放つ。男も女も男もそれは一塊りの声であり、バラバラの音響なのだ。彼と何のかかはりもない、それらの一群が夕方退去すると、今度は灯の消えた廊下を鼠の一群が跳梁する。それから、彼が外食に出掛けたり、近所にある雑誌社に立寄ると、街が、活字が、音楽が、何かが何かを煽り、何かが何かと交錯して来た。
そのビルの一室に移つてから、彼はあの淋しげな女と
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