つて光を放つ。(この心の疼き、この幻想のくるめき)僕は眼も眩むばかりの美しい世界に視入らうとした。
それから、僕を置いてくれてゐたその家の主人は、ある日旅に出かけると、それきり帰つて来なかつた。暫くして、その友人は旅先で愛人を得てゐて、もう東京へは戻つて来ないことが判つた。それから僕はその家を立退かねばならなかつた。それから僕は宿なしの身になつてゐたのだが、それから……。苦悩が苦悩を追つて行く。――つみかさなる苦悩にむかつて跪き祈る女がゐた。
「一度わたしは鏡でわたしの顔を見せてもらつた。あれはもうわたしではなかつた。わたしではない顔のわたしがそんなにもう怕くはなかつた。怕いといふことまでもうわたしからは無くなつてゐるやうだ。わたしが滅びてゆく。わたしの靡爛した乳房や右の肘が、この連続する痛みが、痛みばかりが、今はわたしなのだらうか。
あのときサツと光が突然わたしの顔を斬りつけた。あつと声をあげたとき、たしかわたしの右手はわたしの顔を庇はうとしてゐた。顔と手を同時に一つの速度が滑り抜けた。あつと思ひながらわたしはよろめいた。倒れてはゐなかつた。倒れてはゐないのがわかつた。なにかが走り抜けたあとの速さだけがわたしの耳もとで唸る。わたしの眼は、わたしが眼をあけたとき、濛々としてゐるものが静まつて、崩れ落ちたものが、しーんとしてゐた。どこかで無数の小さな喚きが伝はつてくる。風のやうなものは通りすぎてゐたのに、風のやうなものの唸りがまだ迫つてくる。あのとき、すべてはもう終つてゐるのだ。だのに、これから何か始まりさうで、そわそわしたものがわたしのなかで揺れうごいた。……」
「火の唇」の書きだしを彼はノートに誌してゐたが、惨劇のなかに死んでゆくこの女性は一たい誰なのか、はつきりしなかつた。が、独白の囁は絶えず聞えた。永遠の相に視入りながら、死の近づくにつれて、心の内側に澄み亘つてくる無限の展望……。突如、生の歓喜が、それは電撃の如くこの女を襲ひ、疾風よりも烈しくこの女を揺さぶる。まさに、その音楽はこの女を打砕かうとする。ああ、一人の女の胸に、これほどの喜びが、これほどの喜びが許されてゐていいので御座いませうか、と、その女は感動してゐる自分に感涙しながら跪く。と、時は永遠に停止し、それからまたゆるやかに流れだす。
こんな情景を追ひながらも、彼は絶えず生活に追詰められてゐた。それから長く休刊だつた雑誌が運転しだすと急に気忙しさが加はつた。雑誌社は何時出かけて行つても、来訪者が詰めかけてゐたし、原稿は机上に山積してゐた。いろんな人間に面会したり、雑多な仕事を片づけてゆくことに何か興奮の波があつた。その波が高まると、よく彼は「人間が人間を揉み苦茶にする」と悲鳴をあげた。
(人間が人間を……)。昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のやうに戦いてゐた。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それらが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるへさせた。一人でも人間が僕の眼の前にゐたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散つた。僕は人間が滅茶苦茶に怕かつたのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだつた。しかも、そんなに戦き脅えながら、僕はどのやうに熱烈に人間を恋し理解したく思つてゐたことか。
ところが今では、今でも僕が人生に於てぎこちないことは以前とかはりないが、それでも、人間と会ふとき前とは違ふ型が出来上つてしまつた。僕が誰かと面談しようとする。僕は僕のなかにスヰツチを入れる。すると、さつと軽い電流が僕に流れ、するとあとはもう会話も態度も殆どオートマチツクに流れだすのだ。これはどうしたことなのだ? 僕は相手を理解し、相手は今僕を知つてゐてくれるのだらうか――さういふ反省をする暇もなく、僕の前にゐる相手は入替り時間は流れ去る。そして深夜、僕にはいろんな人間のばらばらの顔や声や身振がごつちやになつて朧な暈のやうに僕のなかで揺れ返る。僕はその暈のなかにぼんやり睡り込んでしまひさうだ。と突然、戦慄が僕の背筋を突走る。
「いけない、いけない、あの向うを射抜け」
何万ボルトの電流が叫びとなつて僕のなかを疾駆するのだ。
(人間が人間を……。その少女にとつて、まるで人間一個の生存は恐怖の連続と苦悶の持続に他ならなかつた。すべてが奇異に縺《もつ》れ、すべてが極限まで彼女を追詰めてくる。食事を摂ることも、睡ることも、息をすることまで、何もかも困難になる。この幼ない切ない魂は徒らに反転しながら泣号する。「生きてゐること、生きてゐることが、こんなに、こんなに辛い」と……。ところが、ある時、この少女の額に何か爽やかなものが訪れる。それから向側にぽつかりと新しい空間が見えてくる。)
「火の唇」のイメージは揺らぎながら彼のなかに見え隠れしてゐた。そ
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