のうち仕事の関係で彼は盛場裏の酒場や露路奥の喫茶店に足を踏入れることが急に増えて来た。すると、アルコールが、それは彼にとつて戦後はじめてと云つていいのだつたが、彼の眼や脳髄に泌みてゆき、夜の狭い裏通には膨れ上つてゆらぐ空間が流れた……。彼の腰掛けてゐる椅子のすぐ後を奇妙な身なりの少年や青年がざわざわと揺れてゆく。屋台では若い女が一つのアクセントのやうに絶えず身動きしながら、揺れてゐるものに取まかれてゐる。眼はニスを塗つたやうにピカピカし、ルージユで濡れた唇は血のやうだ。あれが女の眼であり、唇かと僕はおもふ。揺れてゐるガス体は今にも何かパツと発火しさうだ。だが、僕の靴底を奇妙に冷たいものが流れる。どうにもならぬ冷たいものが……。あの女も恐らく炎々と燃える焔に頬を射られ、跣で地べたを走り廻つたのか。今も何かを避けようとしたり、何かに喰らひつかうとするリズムが、それも揺れてゐる。めらめらと揺れてゐる。それにしても、彼の靴底を流れてゆく冷たいものは……。ふと、彼の腰掛のすぐ後に、ふらふらの学生が近寄つてくる。自分の上衣のポケツトからコツプを取出し、それに酒を注いでもらつてゐる。「いいなあ、いいなあ、人間が信じられたならなあ」とその学生は甘つたれの表情でよろよろしてゐる。冷たいものはざわざわと揺れる。火が、火が、火が、だが、火はもうここにはなささうだ。火事場の跡のここは水溜りなのか。
水溜りを踏越えたかと思ふと、彼の友人が四つ角のもの蔭で「夜の女」と立話してゐる。それからその女は黙つて二人の後をついて来る。薄暗い喫茶店の隅に入る。(どうして、そんな「夜の女」などになつたのです)親切な友人は女に話しかけてみる。(家があんまり……家では暮らせないので飛出しました)小さないぢけた鼻頭が、ひつぱたけ、何なりとひつぱたけと、そのやうに、そのやうに、歪んだやうに彼の目にうつる。それからテーブルの下にある女の足が、その足に穿いてゐる侘しい下駄が、ふと彼の眼に触れる。あ、下駄、下駄、下駄……冷たいものの流れが……(ぢやあお茶だけで失敬するよ)親切な友人は喫茶店の外で女と別れる。おとなしい女だ。そのまま女は頷いて別れる。
それからまた、ある日は、この親切な友人が彼を露地の奥の喫茶店へ連れて行く。と、テーブルといふテーブルが人間と人間の声で沸騰してゐる。濛々と渦巻く煙草の煙のなかから、声が、顔が、わざとらしいものが、ねちこいものが、どうにもならないものが、聞え、見え、閃くなかを、腫れつぽい頬のギラギラした眼の少女がお茶を運んでゐる。(ここでも、人間が人間を……。だが、人間が人間と理解し合ふには、ここでは二十種類位の符牒でこと足りる。たとへば、
清潔 立派 抵抗 ひねる 支へる 崩れる ハツタリ ずれ カバア フイクシヨン etc.
そんな言葉の仕組だけで、お互がお互を刺戟し、お互に感激し、そして人間は人間の観念を確かめ合ひ、人間は人間の観念を生産してゆく。だが、僕の靴底を流れるこの冷たい流れ、これは一たい何なのだ。)……ふと、気がつくと、向のテーブルでさつきまで議論に熱狂してゐた連中の姿も今はない。夜更が急に籐椅子の上に滑り堕ちてゐる。隣の椅子で親切な友人はギラギラした眼の少女と話しあつてゐる。(お腹がすいたな、何か食べに行かないか)友人は少女を誘ふ。(ええ、わたしとても貧乏なのよ)少女は二人の後について夜更の街を歩く。冷たい雨がぽちぽち降つてくる。彼の靴底はすぐ雨が泌みて、靴下まで濡れてゆく。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもなささうだ。(君もそんな靴はいてゐて、雨が泌みるだらう)彼はふと少女に訊ねてみる。(ええ 泌みるわ とても)少女はまるでうれしげに肯く。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもない。(わたし帰るわ)少女は冷たい水溜のなかに靴を突込んで立留まる。
「火の唇」はいつまでたつても容易に捗らなかつた。そして彼がそれをまだ書き上げないうちに、その淋しげな女とも別れなければならぬ日がやつて来たのだ。その後もその女とは裏通りなどでパツたり行逢つてゐた。一緒に歩く時間も長くなつたし、一緒に喫茶店に入ることもあつた。人生のこと、恋愛のこと、お天気のこと、文学のこと、女は何でもとり混ぜて喋り、それから凝と遠方を眺める顔つきをする。絶えず何かに気を配つてゐるところと、底抜けの夢みがちなところがあつて、それが彼にとつては一つの謎のやうだつた。お天気のこと、人生のこと、恋愛のこと、文学のこと、彼は女の喋る言葉に聴き惚れることもあつたが、何かがパツたり滑り堕ちるやうな気もした。
ああして、女がこの世に一人存在してゐること、それは一たい何なのだ……その謎が次第に彼を圧迫し強迫するやうになつてゐた。それから、ある日、何故か分らないが、女の顔がこの世のなかで苦
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