気なく冷やかに肯《うなず》いた。冷やかに……だが、その頃、彼は身を置ける一つの部屋さえ持てず、転々と他人の部屋に割込んで暮していた。そんな部屋の片隅《かたすみ》でノートに書いていた。
〈踏みはずすべき階段もなく、足は宙に浮いている。もしかすると彼は墜落しているのだろうか。だが、彼の眼は真さかさまに上を向いていて、墜落してゆく体と反対に、ぐんぐん上の方へ釣上げられてゆく。絶叫もきこえない。歓声も湧《わ》かない、すべては宙に浮んだまま。(無限階段)〉
 女は彼と反対側の電車で帰った。淋しそうな女だが、とにかくああして帰って行く場所はあるのかと、何となしに彼は吻《ほっ》とした。人間が地上にはっきりした巣をもっていること(それは妻が生きていた頃なら別に不思議でもなかったが)今では彼にとって殆《ほとん》ど驚異に近かった。あの時……彼の頭上に真暗なものが崩れ落ちるとその時から、彼には空間が殆ど絶え間なく波のように揺れ迫った。その時から、彼は地上の巣を喪《うしな》い、空間はひっきりなしに揺れ返ったのだ。……火焔《かえん》のなかを突切って、河原《かわら》まで逃げて来ると、そこには異形《いぎょう》の裸体
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