るわ とても)少女はまるでうれしげに肯《うなず》く。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもない。(わたし帰るわ)少女は冷たい水溜りのなかに靴を突込んで立留る。

「火の唇」はいつまでたっても容易に捗《はかど》らなかった。そして彼がそれをまだ書き上げないうちに、その淋しげな女とも別れなければならぬ日がやって来たのだ。その後もその女とは裏通りなどでパッタリ行逢っていた。一緒に歩く時間も長くなったし、一緒に喫茶店に入ることもあった。人生のこと、恋愛のこと、お天気のこと、文学のこと、女は何でもとり混ぜて喋り、それから凝《じっ》と遠方を眺《なが》める顔つきをする。絶えず何かに気を配っているところと、底抜けの夢みがちなところがあって、それが彼にとっては一つの謎《なぞ》のようだった。お天気のこと、恋愛のこと、文学のこと、彼は女の喋る言葉に聴《き》き惚《ほ》れることもあったが、何かがパッタリ滑り堕ちるような気もした。
 ああして、女がこの世に一人存在していること、それは一たい何なのだ……その謎が次第に彼を圧迫し脅迫するようになっていた。それから、ある日、何故《なぜ》か分らないが、女の顔がこの世のなかで苦し
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