はなかった。わたしではない顔のわたしがそんなにもう怕《こわ》くはなかった。怕いということまでもうわたしからは無くなっているようだ。わたしが滅びてゆく。わたしの糜爛《びらん》した乳房や右の肘《ひじ》が、この連続する痛みが、痛みばかりが、今はわたしなのだろうか。
あのときサッと光が突然わたしの顔を斬《き》りつけた。あっと声をあげたとき、たしかわたしの右手はわたしの顔を庇《かば》おうとしていた。顔と手を同時に一つの速度が滑《すべ》り抜けた。あっと思いながらわたしはよろめいた。倒れてはいないのがわかった。なにかが走り抜けたあとの速さだけがわたしの耳もとで唸《うな》る。わたしの眼は、わたしが眼をあけたとき、濛々《もうもう》としているものが静まって、崩れ落ちたものがしーんとしていた。どこかで無数の小さな喚《わめ》きが伝わってくる。風のようなものは通りすぎていたのに、風のようなものの唸りがまだ迫ってくる。あのとき、すべてはもう終っているのだ。だのに、これから何か始りそうで、そわそわしたものがわたしのなかで揺れうごいた。……」
「火の唇」の書きだしを彼はノートに誌《しる》していたが、惨劇のなかに死ん
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