火の唇
原民喜

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)いつもの路《みち》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)高層ビルの一|聯《れん》が、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](昭和二十四年五、六月合併号『個性』)
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 いぶきが彼のなかを突抜けて行った。一つの物語は終ろうとしていた。世界は彼にとってまだ終ろうとしていなかった。すべてが終るところからすべては新しく始る、すべてが終るところからすべては新しく……と繰返しながら彼はいつもの時刻にいつもの路《みち》を歩いていた。女はもういなかった、手袋を外《はず》して彼のために別れの握手をとりかわした女は。……あの掌《てのひら》の感触は熱かったのだろうか冷やりとしていたのだろうか……彼はオーバーのポケットに突込んでいる両手を内側に握り締めてみた。が何ものも把《とら》えることは出来なかった。影のような女だったのだが、彼もまた女にとって影のような男にすぎなかったのだ。影と影はひっそりとした足どりで濠端《ほりばた》に添う鋪道《ほどう》を歩いていた。そして、最後にたった一度、別れの握手をとりかわした、たったそれだけの交渉にすぎなかった、淋《さび》しい淋しい物語だった。
 いぶきが彼のなかを突抜けて行く。淋しい淋しい物語の後を追うように、彼は濠端に添う鋪道を歩いて行く。枯れた柳の木の柔かな影や、傍《かたわら》にある静かな水の姿が彼をうっとりと涙ぐまそうとする。すべてが終るところから、すべては新しく……彼はくるりと靴の踵《かかと》をかえして、胸を張り眼を見ひらく。と、風景も彼にむかって、胸を張り眼を見ひらいてくる。決然と分岐する鋪装道路や高層ビルの一|聯《れん》が、その上に展《ひろ》がる茜色《あかねいろ》の水々しい空が、突然、彼に壮烈な世界を投げかける。世界はまだ終ってはいないのだ。世界はあの時もまた新しく始ろうとしていた。あの時……原子爆弾で破滅した、あの街は、銀色に燻《くすぶ》る破片と赤く爛《ただ》れた死体で酸鼻《さんび》を極《きわ》めていた。傾いた夏の陽《ひ》ざしで空は夢のように茫《ぼう》と明るかった。橋梁《きょうりょう》は崩《くず》れ堕《お》ちず不思議と川の上に残されていた。その橋の上を生存者の群がぞろぞろと通過した。その橋の上で颯爽
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