《さっそう》と風に頭髪を翻しながら自転車でやって来る若い健康そうな女を視《み》た。それは悲惨に抵抗しようとする生存者の奇妙なリズムを含んでいた。だが、その瞬間から、彼の脳裏に何か焦点ははっきりとしないが、広漠《こうばく》たる空間を横切る新しい女の幻影が閃《ひらめ》いた。
[#ここから2字下げ]
イヴ
ニュー・イヴ
[#ここで字下げ終わり]
イヴは今も彼が見上げる空の一角を横切ってゆくようだ。茜色の水々しい空には微《かす》かに横雲が浮んでいて、それは広島の惨劇の跡の、あの日の空と似てくる。いぶきが彼のなかを突抜けてゆく。
彼がその女と知遇《しりあ》ったのは、ある会合の席上であった。火の気のないビルの一室は煙で濛々《もうもう》と悲しそうだった。女は赤いマフラをしていた。その眼はビルの窓ガラスのように冷たかった。二度目に遇ったのも、やはりその佗《わび》しいビルの一室であった。会合が終ったとき女がはじめて彼に口をきいた。それから駅まで一緒に歩いた。
「わたしと交際《つきあ》ってみて下さい。またいつかお会い致しましょう」
みて下さい……という言葉が彼の意識に絡《から》まった。が、彼はさり気なく冷やかに肯《うなず》いた。冷やかに……だが、その頃、彼は身を置ける一つの部屋さえ持てず、転々と他人の部屋に割込んで暮していた。そんな部屋の片隅《かたすみ》でノートに書いていた。
〈踏みはずすべき階段もなく、足は宙に浮いている。もしかすると彼は墜落しているのだろうか。だが、彼の眼は真さかさまに上を向いていて、墜落してゆく体と反対に、ぐんぐん上の方へ釣上げられてゆく。絶叫もきこえない。歓声も湧《わ》かない、すべては宙に浮んだまま。(無限階段)〉
女は彼と反対側の電車で帰った。淋しそうな女だが、とにかくああして帰って行く場所はあるのかと、何となしに彼は吻《ほっ》とした。人間が地上にはっきりした巣をもっていること(それは妻が生きていた頃なら別に不思議でもなかったが)今では彼にとって殆《ほとん》ど驚異に近かった。あの時……彼の頭上に真暗なものが崩れ落ちるとその時から、彼には空間が殆ど絶え間なく波のように揺れ迫った。その時から、彼は地上の巣を喪《うしな》い、空間はひっきりなしに揺れ返ったのだ。……火焔《かえん》のなかを突切って、河原《かわら》まで逃げて来ると、そこには異形《いぎょう》の裸体
前へ
次へ
全13ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング