僕はもしかすると、母の乳房から彼女の脅えた心臓の鼓動を吸ひとつたのかもしれない。それは大地に生存しようとするもの、女性たちの祈りのやうにおもへてくる。(だから、僕にはあの広島の惨劇に遭つた沢山の女の子たちが、やがて母親となつた時、その息子たちに、あのときのことを語る顔つきや言葉が見えてくるやうだ。)
あの焼失せた家の座敷には、いつも初夏の爽やかな風がそよいでゐた。たしかに、子供の僕は爽やかなものが飛びきり悦しかつたのだらう。僕の死んだ父もやはり微風のなかでものを想像するのが好きだつたらしい。涼しい籐の敷物の上で、少年の僕を膝の上に抱へて、僕に話してくれたものだ。
「お前が大きくなつたら、……さうだね、お前が大人になつたときの話をしよう。お前はその時、大きな大きな家に棲むよ。それから、お前には立派な立派なお嫁さんがある。さうだ、お前は兄弟のうちで、とにかく一番の幸ものになるよ」
父は自分の予言に熱中して、その時僕がどんな着物着てゐるか、その家の庭の眺めがどんな具合になつてゐるか、一つ一つ細かに描いてみせるのだつた。それは微風が描かせた夢だつたのかもしれない。が、死んだ父はやはり僕に一
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