。たつた一人にはなつたが、郷里の家には母や妹が僕のことを思つてゐてくれた。僕はその頃やさしいものに支へられて、のびのびと呼吸づいてゐるのが分つた。だが、何か感じ易い心がやがて遠くから訪れてくる激変をひそかに描いてはゐた。その予感とても僕は挫きはしなかつた。僕は運命を素直に受け入れて人生を味ひたかつた。それほどまだ体験に憧れてゐる少年だつたのだ。
 僕はその下宿の部屋の電燈の下でバルビユスの「地獄」を読んだ。生温かい静かな晩だつた。僕は柔かい壁にとり囲まれてゐるやうだつた。だが、その物語の人物は巴里の荒涼とした下宿の一室で独り深淵を視つめてゐるのだつた。そのひとり暮しの全く孤独の彼には子供が無かつた。だから、もし彼が死んでしまへば、人類の生存以来続いて来た一つの点線が彼のところで、ぱたりと杜切れてしまふことになる。この空白の想定は彼を何か慄然とさすのだつた。体験に憧れてゐる少年の僕もそこから底なしの風穴が覗き込むやうな気がしたものだ。

 学生の僕はその頃、不思議な男と友達になつてしまつた。(これは今でも遠くから僕を揺さぶる不思議な人間像なのだが、……)はじめて僕が彼と知りあひになつた頃
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