た。僕は立どまつてしまつた。急に何も彼も冷んやりとしてゐた。その頃から僕は置き去りにされた子供だつた。
 僕は夕方、外食へ出掛けて行く途中のごたごたした路上で、「一番星みつけた」といふ優しい単純な声を聞いた。すると僕のなかで、ごつた返してゐる思念がふと水を打つたやうに静まつて来た。星はいつの世にも夕ぐれ現れ、子供はいつの日にもそれを見つけて悦ぶのだらうか。それから僕は路ばたの莚の上に坐つて遊んでゐる女の子のほとりを何気なく通りすぎた。そのあたりはまだ明るかつた。と、何か美しいものがチラと僕の眼を掠めたやうだ。見ると筵の紙の上には小さく引裂かれた蜜柑の皮が釦か何かのやうに綺麗に並べてあるのだつた。(だが、こんなものを見てすぎて行く僕は空漠たる旅人なのだらうか。)

 僕がはじめて郷里の家を離れて旅に出たのは、もう遠い昔の春のことだつた。東京の裏街の下宿の狭い部屋で、僕ははじめて、たつた一人になつたやうな気がしたものだ。だが、その部屋の窓から見える隣の黒い板塀に春の陽ざしは柔かく降灑いでゐて、狭い庭の面には青い草が萌えてゐた。僕は柔かい優しい空気につつまれて、あやされてゐるやうな気持がした
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