、既にその人は家が没落して殆ど無一文で巷に投出されてゐた。倒産とともに死んだ父親は実は叔父で、ほんとの父親は夙に死亡してゐた。それから今迄生みの母だと思つてゐた母親は養母だつたのだ。こんなことがその時漸く彼にはわかつたのだ。
「だから、こんなこともあつたのだ。子供の僕は悪戯をして刑罰に父親に両手を紐で括られて、押入の中に押込まれる。暫くすると、僕は押入の中で泣喚いてゐるのだ。括られてゐた紐がひとりでに解けた。紐が解けたからもう一度括つてくれと云つて泣喚いてゐるのだよ。こんな悲しい子供があるだらうか」
だが、僕がその頃、漠然とその友に惹きつけられてゐたのは、やはり彼のなかにある人並はづれて悲しい人間の姿だつたのかもしれない。巷に投出された彼は公園のベンチで夜を明したり、十日目にありついた一杯の飯に涙ぐむこともあつた。さういふ悲惨な境遇はまだ僕にとつては未知の世界だつたが、僕の友人の顔には力一杯何か踏ん張つてゐるものの表情があつた。どうかすると僕は彼のなかに潜む根かぎり明るい不思議な力を振り仰ぐやうな気持だつた。彼は僕と遇へば、絶えず詩のことを話しかけた。その話振りは、何かもどかしく僕に
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