親和が繰返されてゐるのだらう。その軒の下でなくては通じない特別の表情や合図がぎつしり詰つてゐるに違ひないのだ。
僕には焼失せた郷里の家の縁側の感触が夢のなかで甦つてくる。あの座敷の縁側の板のどの部分であつたか、楓の木の茶褐色の節の美しい木目が見えてゐるあたりだつたとおもふ。その辺に僕の死んだ母は坐つて、幼い僕に雷の話をしてくれた。そこからは井戸の側から大きく曲りうねつて空高く伸上つてゐる松の幹が真正面に見えてゐた。
「あの松の木の上の空です。パツと火柱が立つたのです。真赤な大きな火箸のやうな柱が……。それから間もなく火事になりました。香川さんの屋根の上に雷は墜ちたのでした。あのときの怕かつたこと、それは何といつていいのか。まだ朝のことでした」
母はまだ松の上の空に火柱を視た瞬間の表情を湛へてゐた。それは僕がまだ生れない前の出来事だつたが、母の顔つきから僕には何かほのぼの伝はつてくるものがあつた。
「お前がまだ、おなかにゐた頃、近所に火事がありました。あのときも、それは何といつていいのか驚いてしまひました」
そんなことを語る母の表情には不思議に僕をうつとりとさすものがあつたやうだ。僕はもしかすると、母の乳房から彼女の脅えた心臓の鼓動を吸ひとつたのかもしれない。それは大地に生存しようとするもの、女性たちの祈りのやうにおもへてくる。(だから、僕にはあの広島の惨劇に遭つた沢山の女の子たちが、やがて母親となつた時、その息子たちに、あのときのことを語る顔つきや言葉が見えてくるやうだ。)
あの焼失せた家の座敷には、いつも初夏の爽やかな風がそよいでゐた。たしかに、子供の僕は爽やかなものが飛びきり悦しかつたのだらう。僕の死んだ父もやはり微風のなかでものを想像するのが好きだつたらしい。涼しい籐の敷物の上で、少年の僕を膝の上に抱へて、僕に話してくれたものだ。
「お前が大きくなつたら、……さうだね、お前が大人になつたときの話をしよう。お前はその時、大きな大きな家に棲むよ。それから、お前には立派な立派なお嫁さんがある。さうだ、お前は兄弟のうちで、とにかく一番の幸ものになるよ」
父は自分の予言に熱中して、その時僕がどんな着物着てゐるか、その家の庭の眺めがどんな具合になつてゐるか、一つ一つ細かに描いてみせるのだつた。それは微風が描かせた夢だつたのかもしれない。が、死んだ父はやはり僕に一つの夢を托しておきたかつたのだらうか。
あの家の二階の北側にある小さな窓からは、いつも漆黒の夜空が覗き込んでゐた。あの窓を開け立てするたびに発する微妙な軋みまで僕には外から覗き込んでゐるものと関連があるやうな気がしたものだ。死んだ姉はよく星のことを話してくれた。姉の眼のなかには深淵に脅えるものと憧れるものとが混りあつてゐたやうだ。しーんとした狭い部屋だつた。少年の僕にはその部屋の上の屋根をめくつて展がつてゐる無限の世界が、じーんと響いてきさうだつた。あの頃から何か不思議なものが僕を魅して僕を覗き込んでゐたのではないだらうか。……お前は知つてゐてくれるだらう。子供の僕がどのやうに烈しく美しいものに憧れたか。てんたう虫の翅の模様、桜桃の光沢、しやぼん玉に映る虹、そんなものを見ただけで、僕の魂はいきなり遠いところへ彷徨つて行つた。僕の眼は美しい色彩にみとれ、頭の芯まで茫としてゐた。子供の僕には美の秘密につつまれた世界だけが堪らなかつたのだ。(だから、僕がお前のなかに一番切実に見ようとしたのは、子供の時の郷愁だつたかもしれない。)
ときどき僕はこの街なかの雑沓のなかで、お前の幼年時代に似てゐる女の子をちらつと見かけることがある。きちんとした、そして少し悲しさうでさへある、小さな女の子の顔を見ると、あそこにまだお前は成長してゐるのではないかしらとおもふ。それから僕はお前が嘗て夢に描いてゐた子供のことをおもひだす。野つぱらを飛び廻つて跳ね廻つて、見るからに幸福さうな、子供であることの幸福を全身に湛へてゐる子供のことを……、そんな子供は今も何処かこの地上にゐて、やはり成長してゐるのだらうか。
僕は歩きながら自分の靴音が静かに整つてゐるのを感じる。電車通りから横に折れて、一米幅の小路に入ると、両側の高い建物の上に見える青空がくつきりと美しい。ほんとに、こんな美しい青空が街なかに存在してゐるのだらうか。だが僕は知つてゐる。殆ど餓死に近い状態で焼跡をよろめき歩いたとき、あのときも、天の高みから、さつと洩れて来る不思議に清らかな光があつた。そして僕が生き残つたこと、現にまだ僕が生きてゐること、何かがそのことを僕に激しく刻みつけよと促すやうだ。僕は自分の靴の音を自分の息のやうに数へてゐる。
僕はこの部屋の窓のすぐ下で、大勢の子供が声を揃へて、
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