ウオ
ウオ ウオ ウオ
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と火事の唸りを真似てゐるのを、ぼんやり聴いてゐた。夕闇のおりてゐる寒々とした路上で、子供たちは自分たちで煽りだした自分たちの声に興奮して、まるで一人一人が焔のやうに振舞つてゐるのだ。ほんたうに子供たちは燃え狂ひ、何かに憑かれてゐるのではないか。これは凄惨な空襲の夜の記憶が彼等の眼に甦り、子供らは今、火炎の反射のなかで遊んでゐるのだらうか、だが、
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燃える 燃える わあ わあ わあ
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子供らの声はだんだん上の方を振上ぐ調子を帯び、みんなが今、同じ一つの幻を凝視してゐるやうだ。そしてそれはもう哀愁を乗越えて、歓喜の頂点に達したもののやうだつた。
僕は殆ど絶え間なしに雑音にとりまかれて揺さぶられてゐる。道路を隔ててこの窓はすぐ向側の家並と向きあつてゐるが、絶えず窓から飛込んでくる音響は、まるでこの部屋のなかに街や道路が勝手に割込んでくるやうだ。つくづく僕は僕を今仮りに容れてくれてゐる、この部屋を気の毒なおもひで見渡す。だが、見捨てられてゐるのはやはり僕の方らしいのだ。僕はどうかすると窓の外の騒ぎに揺さぶられながら、夕闇につつまれた部屋で電燈も点けないで、ぼんやりしてゐることがある。さういふとき、この部屋の窓の外に下駄の音が近づいて来る。と、窓の外にある街燈の柱からぶらさがつてゐる紐を誰かが引張る。軽い音とともに、そこには灯がつくのだ。と、僕は置き去りにされてゐた自分に気がつく。子供たちはあの街燈のスヰツチの紐を引張ることに、そんな些細な単純なことに歓びを見出してゐるのだらうか。道路のほかに遊び場を持たない、この附近の子供たちは、どういふ訳か好んで僕の窓のすぐ前にある街燈のところに集るのだが、彼等のなかには何か互に感染しあふ弾みが潜んでゐるのだらう、一人が喚きだすと、忽ち騒ぎは道路一めんに拡つて行く。僕は彼等のなかで絶えず喚きのきつかけ[#「きつかけ」に傍点]を作り出す男の子と女の子の声を覚えてしまつた。が、一たん騒ぎが拡つてしまふと、後から後から喚きは湧上つて回転する。……僕はふと走り喚く子供の頭に映るイメージの色彩を憶ひ出した。体が火照つて頭の上に揺らぐ温かいものが絶えず僕の上にあつた。僕は筒のなかを走りつづけてゐた。だが、ふと、さうして走り廻ることの虚しさが僕を把へた。僕は立どまつてしまつた。急に何も彼も冷んやりとしてゐた。その頃から僕は置き去りにされた子供だつた。
僕は夕方、外食へ出掛けて行く途中のごたごたした路上で、「一番星みつけた」といふ優しい単純な声を聞いた。すると僕のなかで、ごつた返してゐる思念がふと水を打つたやうに静まつて来た。星はいつの世にも夕ぐれ現れ、子供はいつの日にもそれを見つけて悦ぶのだらうか。それから僕は路ばたの莚の上に坐つて遊んでゐる女の子のほとりを何気なく通りすぎた。そのあたりはまだ明るかつた。と、何か美しいものがチラと僕の眼を掠めたやうだ。見ると筵の紙の上には小さく引裂かれた蜜柑の皮が釦か何かのやうに綺麗に並べてあるのだつた。(だが、こんなものを見てすぎて行く僕は空漠たる旅人なのだらうか。)
僕がはじめて郷里の家を離れて旅に出たのは、もう遠い昔の春のことだつた。東京の裏街の下宿の狭い部屋で、僕ははじめて、たつた一人になつたやうな気がしたものだ。だが、その部屋の窓から見える隣の黒い板塀に春の陽ざしは柔かく降灑いでゐて、狭い庭の面には青い草が萌えてゐた。僕は柔かい優しい空気につつまれて、あやされてゐるやうな気持がした。たつた一人にはなつたが、郷里の家には母や妹が僕のことを思つてゐてくれた。僕はその頃やさしいものに支へられて、のびのびと呼吸づいてゐるのが分つた。だが、何か感じ易い心がやがて遠くから訪れてくる激変をひそかに描いてはゐた。その予感とても僕は挫きはしなかつた。僕は運命を素直に受け入れて人生を味ひたかつた。それほどまだ体験に憧れてゐる少年だつたのだ。
僕はその下宿の部屋の電燈の下でバルビユスの「地獄」を読んだ。生温かい静かな晩だつた。僕は柔かい壁にとり囲まれてゐるやうだつた。だが、その物語の人物は巴里の荒涼とした下宿の一室で独り深淵を視つめてゐるのだつた。そのひとり暮しの全く孤独の彼には子供が無かつた。だから、もし彼が死んでしまへば、人類の生存以来続いて来た一つの点線が彼のところで、ぱたりと杜切れてしまふことになる。この空白の想定は彼を何か慄然とさすのだつた。体験に憧れてゐる少年の僕もそこから底なしの風穴が覗き込むやうな気がしたものだ。
学生の僕はその頃、不思議な男と友達になつてしまつた。(これは今でも遠くから僕を揺さぶる不思議な人間像なのだが、……)はじめて僕が彼と知りあひになつた頃
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