、既にその人は家が没落して殆ど無一文で巷に投出されてゐた。倒産とともに死んだ父親は実は叔父で、ほんとの父親は夙に死亡してゐた。それから今迄生みの母だと思つてゐた母親は養母だつたのだ。こんなことがその時漸く彼にはわかつたのだ。
「だから、こんなこともあつたのだ。子供の僕は悪戯をして刑罰に父親に両手を紐で括られて、押入の中に押込まれる。暫くすると、僕は押入の中で泣喚いてゐるのだ。括られてゐた紐がひとりでに解けた。紐が解けたからもう一度括つてくれと云つて泣喚いてゐるのだよ。こんな悲しい子供があるだらうか」
だが、僕がその頃、漠然とその友に惹きつけられてゐたのは、やはり彼のなかにある人並はづれて悲しい人間の姿だつたのかもしれない。巷に投出された彼は公園のベンチで夜を明したり、十日目にありついた一杯の飯に涙ぐむこともあつた。さういふ悲惨な境遇はまだ僕にとつては未知の世界だつたが、僕の友人の顔には力一杯何か踏ん張つてゐるものの表情があつた。どうかすると僕は彼のなかに潜む根かぎり明るい不思議な力を振り仰ぐやうな気持だつた。彼は僕と遇へば、絶えず詩のことを話しかけた。その話振りは、何かもどかしく僕には通じないところもあつたが、烈しい火照りは疼くやうに僕の方にも伝はつて来た、二人は街を歩きながら、まるで遠い世界のはてを視てゐるやうだつた。宇宙も歴史も人類の流れも一切がごつちやになつて、くらくらと僕たちのなかに飛込んでくるやうな気がした。それから、彼は人間の生存を剥ぎ奪らうとする怪物に対して、いつも怒りの眼を燃やしてゐた。貧窮と闘ひながら、彼は少しづつ生活の道を切拓いて行つた。ある不幸な女と知遇つて結婚すると、やがて自分の力で小さな家まで建てた。その小さな家にはいくたびも怪物の手は伸びようとしたが……。さうして、とにかく時が流れて行つたのだ。
その友人の家屋は戦火を免れてともかく地上に残されてゐた。住所を失つた僕は友人の家を頼つてそこに一時身を置いた。だが、久し振りに逢うた友の顔はひどく暗鬱な顔つきに変つてしまつてゐた。それは何か重苦しいものに押拉がれてしまつた人間のやうであつた。それはまだ何ものかを根かぎり堪へようとしてゐる姿でもあつた。そして、囚人のやうに重苦しい表情の底にひどく優しげなものが微かに揺れてゐた。こんな悲しい人間があつたのだらうか、僕はひそかに驚かされてしまつた。だが、重苦しさは、その小さな家屋全体に漲つてゐて、もうどうにもならないことが僕にも分つてきた。怕しい顔つきをして押黙つてゐる、この家の細君はいつも何か烈しい苛立ちを身うちに潜めてゐた。時とすると、この小さな家は地割れの呻吟のただなかにあるやうな感じがした。ほんの微かな瞬一つからでも、この家屋は崩壊しさうだつた。その友人はまだ詩を書きつづけてゐた。僕は一度そのノートを見せてもらつたことがある。それには人間の無数の陰惨と破滅に瀕した地上の無数の傷口がぎりぎりの姿で歌ひあげられてゐた。そして、誰かが一すぢの光(それは真黒な雲の裂け目から洩れてくる飴色の太陽の光のやうだ)を微かに手をあげて求めてゐるやうだつた。殆ど彼はすべての人間の不幸を想像の上でも体験の上でも背負ひきれないほど背負はされて、精神の海の暗い深底部の岩礁に獅噛みついてゐるのではないか。ある日、その友人は黙つて旅に出掛けてしまつた。それから暫くして僕もその窒息しさうな家を飛出したのだつた。
その友人は旅に出たまま遂に戻つて来なかつた。だが、そのうち手紙は頻繁に僕のところへ届くやうになつた。それを読むたびに僕は何か烈しいものに揺さぶられる気持がした。彼は遠い北国で一人の愛人を得て、そのままそこへ住みついてしまつたのだ。
「私がこの数年来の絶望の脱走の自殺のてまへに植ゑつけられた傷心の生活については殆どまだ誰にも云はなかつたが、私の自殺の手まへは今了つた。今ひとりの女人像が立つた。私はそのまなざしの光のなかをのぼり、底へ底へと深淵をくぐる。ここにはじめて私は底をきはめうるはずの光を見た。私の救済は吹雪のうちに見た雪女から始つた。この女は愚かさを知つて甘んじて身を捨てて清らかに母を養ふ処女。私はその裸身を抱きながら、まだいつまでも処女でありうるといふ交流を行ふ。私はもうここを去らない。この眼ざしの光のなかでなくては、私は何も考へられない。私は甦る。私ははじめて真実に立ちむかふ。私は生き甲斐といふものを、生の均衡といふものを知つた……」
これはその手紙の一節なのだが、彼は雪と氷柱の土地で新しい愛人を得て、みごとな人生を踏みだしたのだらうか。だが、それは裏街の貧民窟の狭い家屋に母親と姉とそれから彼の愛人との混み入つた雑居生活らしかつた。彼は殆ど絶え間なしに僕に手紙をくれるやうになつた。物凄い勢で絶えず詩を書き、心はつ
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