に、……そんなイメージがきれぎれに僕に浮ぶ。僕はそれが昼間、街の舗道に陳列してあつた写真のせゐだとおもつた。あの写真は削げた頬の下の唇が匙でスープを吸つてゐた。あの写真は靴のない痩せた脛が砂の上を飛歩いてゐた。あの写真は掘立小屋の揺らぐテントの蔭の木のベツドで注射の円い肩が波打つてゐた。僕はそれらが今も僕のなかに紛れ込み僕を脅かしてゐるのがわかつた。すると何処からともなしに哀しげな手風琴の音が聞えて来た。すると僕はその音に誘はれて、ぞろぞろと街を歩いてゐるやうな気持がした。だが、僕のゐるところは一向明るくなかつた。仄暗い地下道らしいところに、僕のまはりを大勢の子供がぞろぞろ歩いてゐるらしかつた。僕は子供たちの流れに添つて歩いて行けばよかつた。と、突然、その流れは停止してしまつた。僕のすぐ眼の前に浮浪児狩りの白い網の壁がするすると降りて来てしまつたのだ。
僕は朝の街角で、すぐ僕の眼の前を歩いて行く若い女の後姿に眼をとめた。午前の爽やかな光線と活々した空気のなかで、その女の小刻みな歩き振りは何の異状も含んではゐなかつた。きちんとした身なりの健康さうな姿だつた。だが、僕の視線がふと、その無表情な洋服の肩のつけ根にとまつたとき、一瞬、相手がバラバラに分解する姿が閃いた。と、あつちからも、こつちからも、悶死者の顔や火の叫喚が僕をとりまいた。ハツとして僕は自分を支へなければならなかつた。……暫くして、僕のなかで犇きあふものが鎮まると、僕はまた先程の女の後姿を眼で追つてゐた。女はもう人混の間に消え去らうとしてゐた。その姿にはどこかはつきりしないが危険な割れ目があるやうだつた。
だが、どんな人間の姿のなかにだつて、たしかに危険な割れ目は潜んでゐるのではないか。僕はあの原爆の光線で灼かれて死んだ人間たちが、人間といふより塑像か何かのやうに無機物の神秘な表情をしてゐたのを憶ひ出す。滅茶苦茶に膨れ上つた肉塊のなかから、紡錘形や円筒が無言で盛上つて流動してゐたのだ。それは突然襲撃してきたものに対する大驚愕のリズムだつた。すべての痙攣的リズムは絡みあつて空間を掴まうとしてゐた。僕はどうかすると今でも眼の前にある街が脅え上つて、一つの姿勢に凝結する図が浮ぶ。すると群衆の一人一人が円筒や紡錘形の無機物の神秘な表情でひつそりと流動してゐるのだ。
ある日、僕は満員の外食食堂で、ふと、あたりを見渡して吃驚した。窓から斜に差込んでくる光線のために、薄暗い天井の下に犇めく顔は殆どすべて歪んでゐた。労苦に抉りとられた筋肉と煤けた皮膚と頭髪が入乱れて、粗末な服装のなかに渦巻いてゐる。一瞬、僕は奇怪な油絵のなかに坐つてゐるやうな気がした。
僕はこの外食食堂でいつとなしに、その顔を見憶えてしまつた青年と舗道で擦れちがふたびに、何となく微かに忌々しい気持にされる。その青年が長い縮れた髪をしてゐることと、洋服の色が華美に明るいことが僕の注意を惹くくらゐなのだが、それでは何も相手を厭ふ理由にはなりさうにない。だが、僕は彼が僕と同じ場所で同じ時刻に似たやうな食事を摂つてゐるといふことが、それだけのことが、ふと堪らなく厭はしくなるのだ。僕のなかには今でも何かを激しく拒否したがる子供らしい傾向が潜んでゐるのだ。だから僕はテーブルの向うでいつも縮こまつて箸を動かしてゐる傴僂男を見ると、やはり微かに気に喰はない感情が湧いて来る。だが、僕はあるとき、その傴僂男が汗みどろでリヤカーを牽いてゐる姿を路上で見てハツとした。僕のなかにまだ残つてゐる子供らしい核心は粉砕されさうになつた。どのやうに僕が今激しく外界を厭はうと、外界の方がもつと激しく僕を拒否するかもしれないのだ。
僕は金物屋の軒先を通りかかつて、目に入る品物にふと不安を感じる。あんなに沢山の食器類はやがて、それぞれ何処かの家の戸棚に収まるのだらう。が、僕にはもうそれらの食器類の名称がわからなくなつたやうな気さへする。アルマイト……ニツケル……無理矢理に僕は何か忘れかけたものを憶ひ出さうとしてみる。だが、何かが僕から滑り墜ちるのだ。お前が生きてゐた頃、僕は何の不安もなく、家のなかの什器類にとり囲まれてゐた。久しい間、僕には家のなかにある品物の名称も形状もすつかりあたりまへのことになつてゐた。今になつて、僕はあのおびただしい器具や衣類が夢のやうにおもへる。焼けて灰になつてしまつた、それらの夢は、もうどこにも収まりやうはないのだ。
だから、それらの夢はぼんやりと空気のなかに溶けて、地上を流れてうごいてゆく。お前と死別れてから、「家」といふものを喪つてから、この地上を流転してゐる僕には、おびただしく流れ動いてゐるものを空白のなかに見おくるばかりなのだ。だけど、今でもやはり、この地上には無数の家が存在して、その軒下では無数の憂鬱と
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