ねに陋屋で昂ぶつてゐることが分つた。僕はこの友がこの地上で受けた一切の傷がこの地上で癒やされることを祈つてゐた。だが、そのうちに友の手紙はだんだん絶望に近い調子を帯びて来るのだつた。
「奈落だ、奈落だ、――どこを見廻しても奈落ばかりなのだ。僕はあの牢獄で独房にゐたときが一番幸福だつたとおもふ」
「明日の光に欺されて、人間に絶望できない絶望が苦しい。人類で正しいのは被害者だけだ。しかも殆ど全部が加害者なのだ」
 これは裏街の貧民窟の狭い家屋で、老いた母親と意地のわるい姉とそれから彼の愛人との雑居生活から生れる軋きであり呻きのやうであつた。……友は暗黒の壁で頭を叩き割つてしまつたのであらうか。無数の魂の傷手を蒙り人間に絶望しながら、友は遂にこんなことを叫ぶ。
「惨めなものだ。生殖のほかに目的のない人生といふもののなかでは、女と子供だけが光だ。他はみなまやかしだ」
 この言葉を僕は驚異なしには受けとれないのだつた。……だが、友は燃料も乏しい住居で、雑草で飢を凌ぎながら、遂にこの友は惨めさの底に、今新しい一人の子供を得たのだ。新しい人間の子供を……。

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風景は僕を噛む 僕は風景を噛む
ああ 噛みあふ二つの お前と僕
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 僕は日没前の時刻が僕をここへ誘ひだすのを知つてゐる。この濠端の舗道まで来れば、冷え冷えしたものが何か却つて僕を温めてくれるのだ。僕のすぐ側を自動車はひききりなしに流れてゆくが、僕の頭上の空はひつそりとして少しづつ光線が薄らいでゆく。僕の眼は今はじめて見るやうに洋館の上の煙突を見上げる。黒い煙の塊りが黙々として浮いて動いてゐるのだ。そのすぐ側にはまだ色のつかない三日月が見えてゐる。僕はあの三日月が僕が向うの橋のところまで歩いて行くうちに光を帯びてくるのを知つてゐる。濠の水を隔てて石崖の上に枝葉を展げて乱舞してゐるやうな一本の樹木……。その緑色の葉は消えてゆく最後の灯のやうに僕の眼に残る。僕はこのあたりの樹木が真夏の光線にくらくら燃え立つてゐたのをまだ憶えてゐる。だが、今、僕の歩いて行く前に見えてくる木々は薄すらと空気に溶け入つてしまひさうだ。空気はそのやうに顫へてゐるのだらうか。顫へてゐるのは僕なのだらうか。それとも死んだお前だらうか。この踵のすり減つてしまつた靴、この着古して紙のやうに脆くなつたオーバー、僕は
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