だが、重苦しさは、その小さな家屋全体に漲つてゐて、もうどうにもならないことが僕にも分つてきた。怕しい顔つきをして押黙つてゐる、この家の細君はいつも何か烈しい苛立ちを身うちに潜めてゐた。時とすると、この小さな家は地割れの呻吟のただなかにあるやうな感じがした。ほんの微かな瞬一つからでも、この家屋は崩壊しさうだつた。その友人はまだ詩を書きつづけてゐた。僕は一度そのノートを見せてもらつたことがある。それには人間の無数の陰惨と破滅に瀕した地上の無数の傷口がぎりぎりの姿で歌ひあげられてゐた。そして、誰かが一すぢの光(それは真黒な雲の裂け目から洩れてくる飴色の太陽の光のやうだ)を微かに手をあげて求めてゐるやうだつた。殆ど彼はすべての人間の不幸を想像の上でも体験の上でも背負ひきれないほど背負はされて、精神の海の暗い深底部の岩礁に獅噛みついてゐるのではないか。ある日、その友人は黙つて旅に出掛けてしまつた。それから暫くして僕もその窒息しさうな家を飛出したのだつた。
その友人は旅に出たまま遂に戻つて来なかつた。だが、そのうち手紙は頻繁に僕のところへ届くやうになつた。それを読むたびに僕は何か烈しいものに揺さぶられる気持がした。彼は遠い北国で一人の愛人を得て、そのままそこへ住みついてしまつたのだ。
「私がこの数年来の絶望の脱走の自殺のてまへに植ゑつけられた傷心の生活については殆どまだ誰にも云はなかつたが、私の自殺の手まへは今了つた。今ひとりの女人像が立つた。私はそのまなざしの光のなかをのぼり、底へ底へと深淵をくぐる。ここにはじめて私は底をきはめうるはずの光を見た。私の救済は吹雪のうちに見た雪女から始つた。この女は愚かさを知つて甘んじて身を捨てて清らかに母を養ふ処女。私はその裸身を抱きながら、まだいつまでも処女でありうるといふ交流を行ふ。私はもうここを去らない。この眼ざしの光のなかでなくては、私は何も考へられない。私は甦る。私ははじめて真実に立ちむかふ。私は生き甲斐といふものを、生の均衡といふものを知つた……」
これはその手紙の一節なのだが、彼は雪と氷柱の土地で新しい愛人を得て、みごとな人生を踏みだしたのだらうか。だが、それは裏街の貧民窟の狭い家屋に母親と姉とそれから彼の愛人との混み入つた雑居生活らしかつた。彼は殆ど絶え間なしに僕に手紙をくれるやうになつた。物凄い勢で絶えず詩を書き、心はつ
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