ガリヴア旅行記
 K・Cに
原民喜

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 この頃よく雨が降りますが、今日は雨のあがつた空にむくむくと雲がただよつてゐます。今日は八月六日、ヒロシマの惨劇から五年目です。僕は部屋にひとり寝転んで、何ももう考へたくないほど、ぼんやりしてゐます。子供のとき、僕は姉からこんな怪談をきかされたのを、おもひだします。ある男が暗い夜道で、怕い怕いお化けと出逢ふ。無我夢中で逃げて行く。それから灯のついた一軒屋に飛込むと、そこには普通の人間がゐる。吻と安心して、彼はさきほど出逢つたお化けのことを相手に話しだす。すると、相手は「それはこんな風なお化けだらう」と云ふ。見ると、相手はさつきのお化けとそつくりなのだ。男はキヤツと叫んで気絶する。――この話は子供心に私をぞつとさすものがありました。一度遇つたお化けに二度も遇はすなど、怪談といふものも、なかなか手のこんだ構成法をとつてゐるやうです。
 先日から僕はスウイフトのガリヴア旅行記をかなり詳しく読み返してみました。小人国の話なら子供の頃から聞かされてゐます。夏の日もうつとりとして、よく僕は小人の世界を想像したものです。子供心には想像するものは、実在するものと殆ど同じやうに空間へ溶けあつてゐたやうです。さういへば、少年の僕は、船乗になりたかつたのです。膝をかかへて、老水夫の話にきき入つてゐる少年ウオター・ロレイの絵を御存知ですか。あの少年の顔は、少年の僕にとても気に入つてゐたのです。
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地図を愛し版画を好む少年には
宇宙はその広大なる食慾に等し。
ああ! ランプの光のもと世界はいかに大なることよ!
されど追憶の眼に映せばいかばかり小なる世界ぞ!
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ボードレールは「航海」といふ詩で、かう嘆じてゐますが、僕自身は今でもまだ人生の航海を卒業してゐない人間のやうです。
 しかし、近頃の新聞記事を読むと、何だか、この地球はリリパツトのやうに、ちつぽけな存在に思へて来るのです。卵を割つて食べるのに、小さい方の端を割るべきか、大きい方の端を割るべきか、と、二つの意見の相違から絶えず戦争をくりかへさねばならないほど、小ぽけな世界に……
 だが、小人国から大人国、ラピユタ、馬の国と
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