。雀を握り締めたい衝動は、女を抱きすくめたい衝動にも似てゐる。消えかけた情熱を再び掻きおこされ、抑制の連続のなかに、すつかり灰になつたあらゆる慾望に、火を焚きつけられたやうな胸のときめきだつた。直吉の皮膚は熱くしびれた。――直吉は、里子に逢へる愉しみだけを考へてゐたのだ。東京は廃墟になつてゐると聞かされてゐたが、千駄ヶ谷のあの二階で、里子は、直吉の帰へりを待つてゐるものと空想してゐた。何年間かの生活の支へはどうしてゐるだらうかとは考へなかつた。出征した時のまゝの、部屋のありさまが、思ひ出されるだけである。出征の前夜、取り乱して泣いた里子のしみじみした姿だけが、直吉には船の中での心の支へでもあつた。
雀をそつと握り締めてみたり、ゆるめてみたりして、直吉は雀を熱心に観察するのだ。広い海の上をのろのろと船は内地へ近づいてゐる。黄泉のやうだつた長い捕虜生活から解放されて、いまこそ帰還するのだとは思ひながらも、直吉は、あまりの船脚の遅いのにまた、何処かへ運び去られるのではないかと錯覚した。直吉は躑踞んで、荒い風の吹く甲板に雀を放してやつた。雀は突差によろめき、飛翔の呼吸を計つてゐたが、一二度羽
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