桃色は、直吉の心をなごやかにしてくれた。夜業に追はれて疲れた日なぞは、床に就いてからもしつこく里子の影像を描いて、ひそかにさうした夢を愉しむやうになり、翌る朝はきまつて頭の芯がづきづきした。直吉は工場で配給係りの手伝ひもしてゐたので、上手に配給物品をごまかす事も覚えて、ゴム長を三足ほどくすねて、それを売り飛ばして、六月の或る夜、浅草に出掛け、何時か里子にここへ呼んでほしいと云はれた志茂代と云ふ待合へ行つてみた。[#「。」は底本では「、」]雀を呼んでくれと頼むと、約束の座敷に行つてゐるので、他の妓はどうだと聞かれたが、直吉は里子の雀が来るまではどうしても待つと云つて、女中相手に独りで酒を呑んだ。電灯に黒い覆ひがかゝり、窓の障子にも黒い紙の幕がさがつてゐる。十一時頃里子はやつて来た。涼しさうな水色の着物を着て、洋髪に結つてゐた。
「あら、酒匂さんだつたの。‥‥誰かと思つたわ。よく来てくれたのね‥‥」
 里子は酒に酔つてゐるとみえて、蓮つぱに直吉のそばに坐つて、両手を直吉の腿の上へ置いた。そして下からぢいつと直吉を覗き込むやうにした。直吉は腿が焼けつくやうだつた。直吉は照れて、まともに里子の
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