。暫くしてから、黒い上張りを着た中年の女が出て来た。
「お二人さんですか?」
「さうです」
「御一泊ですね?」
「さうです‥‥」
 女は二足の古いスリッパを上り框へ揃へてくれた。直吉と里子は、その女の後から二階の梯子を上つて行つたが、表側の、廊下へ向つた部屋へ通された。かね折りの二方が障子で、片方は襖、奥は、三尺の床の間に[#「床の間に」は底本では「床の間の」]一間の押入れがついてゐる。障子も襖も新しいせゐか、案外こざつぱりした部屋だつた。紫檀まがひの卓子の前へ坐ると、隣室から、女は銘仙の座蒲団を二枚持つて来た。直吉は坐つたなりで外套をぬぎながら、夕飯を一人前とビールを註文した。簡単なものなら出来ると云ふので、直吉は吻として、卓子に頬杖ついた。里子は肩掛けをしたまゝ直吉の前へ坐つたが、直吉の方へ視線をむける事はしなかつた。遠くに省線の音が聞こえる位で静かである。里子はシヨールの房をいぢりながら、時々溜息をついてゐた。直吉はよその女と出会つてゐるやうな気がした。甘い匂ひがした。直吉は、里子のうつむいた額のあたりを暫くみつめてゐたが、今日見た、河底の広告マンの姿を思ひ出して、あれだけの勇気
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