つて宿屋を聞いてみたりした。煙草屋の硝子瓶に、光やピースがぎつしりと這入つてゐるのを見て、直吉は、戦争中の、煙草の乏しかつた時代を思ひ出してゐる。光を二つ買つた。煙草屋ではマッチを一つ添へてくれた。世の中がすつかり変化してゐる。直吉はかへつて歴史のうつりかはりを感じた。街の店先には、何処にも防空壕が掘られて、こんもりした防空壕の築地の上に、菜つぱや、コスモスの植つてゐた時代がかつてあつた。街路樹は薪に切られ、家々の軒先きには、トビ口や、火叩きや、砂袋がかならず置いてあつたものだ。男も女もけじめのつかない素朴な姿になり、乏しさによく耐へて生きてゐた。大豆や雑穀の配給を受けて、辛うじて露命をつないでゐた戦争中のしこりが、直吉には、煙草屋の店先きでふつと息苦しく回想された。灯火や、硝子窓に黒い布がかぶさつてゐたのも、つい三四年前の事だ。さうした暮しの乏しい祖国を離れて、里子のつくつてくれた、千人針をふところにして、直吉が出征して行つたのは昭和十九年の秋であつた。
 直吉が此のあたりに旅館はないかと聞きかけると、先きに歩いてゐた里子が後返へりして来た。中学生のやうな店番が、二軒先きの路地のなか
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